アイドル批評空間

アイドルとかについて書くときがあります

ドッツのコンセプト解説の解説③

 今回は要約ではなく、ただ感想を書き散らす形でいきたいと思います。今回のコンセプト担当の文章も、例のごとく長かったのですが、その途中でも出てくるように、ひとまず都市というコンセプトを念頭においておけば理解しやすい部分があるのではないかと思います。以下で、少し展開させてみます。

 とはいえ、まず都市とアイドルとの関係について確認しておいたほうがいいと思うので、引用しておきます。

あくまでアイドルは都市の力の作用の結果として偶発的に存在するのであって、特定の個人が常にアイドルなのではない。・ちゃんたちはアイドルですが、同時に、都市の力=「人間をアイドルにする力」を可視化する存在です。

・ちゃんという、具体的に都市の力が作用した後の女の子が存在することによって、間接的に都市の力が観測可能になる。 

 ドッツのコンセプトにかんして、核心的な部分だとおもいます。ここを押さえておけば、ドッツの様々な取り組みを、少しは理解しやすくなるかもしれません。

 では、今引用した内容を踏まえて、衣装について考えてみましょう。アイドルに衣装にかんしていろいろなことが書かれてありましたが、まず最重要なのは、私服から衣装に着替えることで、普通の女の子からアイドルになる、ということです。コンセプト担当の文章では衣装についての様々なアイデアが記されてありましたが、こうしたアイデアは全て、都市のアイドル化する力を衣装に仮託し、衣装を通じて都市の力をよりわかりやすく実感できるようにする、という意図に基づいているのではないでしょうか。アイドルが衣装を着るのではなく、衣装が女の子にまとわりつくことでアイドルになる、という逆転がここにはあります。

 次に、衣装についての一般的な話から離れて、「kyuukohan」という曲の演出についての解説に触れておきます。この曲の演出は、「東京マヌカン」と同じように、アイドルのテンプレ性を露骨に提示しています。つまり他者から与えられたもの(=大人たちから渡された文庫本の中の言葉)でしか表現を行えない。それに対抗(=叫び)してみるものの、結局は倒れ込んでしまう(=死)。しかし。「東京マヌカン」において・ちゃんたちがマネキン化することによって、自分自身のやり方では表現できないマネキンでしかないことを示しつつも、マネキンになることができるような存在(=「踊るマネキン」)であることを示していたように、この曲での・ちゃんたちも、テンプレでしかない表現を通じてテンプレではない何かを伝えてくれます。いやむしろ、露骨にテンプレ性を提示することによってこそ、それでもあふれ出す非テンプレ性=個性がよりいっそう際立っているのではないでしょうか。

 こうしたことにかんして、二点補足しておきます。一つ目は、アイドルの歴史に関わることです。アイドルは大人たちに支配されていると考えること、そしてパフォーマンスにおいてその操り人形性を見出し、その背後に隠されているはずの裏事情についてあれこれと想像をめぐらせて楽しむこと。こうしたアイドルの受容の仕方は、かなり前から存在していたことが指摘されています。こうした操り人形性に対抗するかたちで、アイドルの主体性=非操り人形性を称揚するような言説が少し前に量産されました(あるいは今でも…。「◯◯(グループ名)はロックだ」とかはその一種ですね)。これらに対してドッツは、露骨にテンプレ性=操り人形性を提示することで、そこに収まりきらないアイドル固有の主体性=個性を示している、と言えるのではないでしょうか。

 二つ目。「kyuukohan」の演出からも明らかなように、ドッツがやっていることの背後には、ある本質を引き延ばして、一つの極端な形で提示する、という戦略があるようにおもいます。一番わかりやすいのは・ちゃんの素顔でしょう。目元がよく見えなくても溢れだしている個性=非テンプレ性。アイドルのかわいさは、視覚的な情報よりもそれが遮られていてもなお見いだすことができる個性にこそ宿るのです。こうした戦略は、他の様々な試みに見いだすことができるはずです。

    最後に、コンセプト担当の仕事の一つとして、「意図や物語の偽造」があげられていることに注目しておきます。そう、偽造です。できることなら創造的な偽造を。何よりもまず・ちゃんが好きというところから、仕方ないけどコンセプト担当の文章をまさに「観光客」として読んでみる。少しでも引っ掛かったところがあれば、自分の関心や持論に応じて文章の言わんとするところを偽造してみる。そんなことがたくさん起きればおもしろいなどと考えてしまいます。もちろん、このブログのドッツにかんする記事も、すべてがそうした偽造に他なりません(ほんの少しでも創造的であればいいんですが…)。