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須藤凜々花『人生を危険にさらせ!』を真剣に哲学書として読んでみた

はじめに

 『人生を危険にさらせ!』という本は以前から気になっていました。須藤さん本人が哲学書だと宣言している以上、いったいどれくらいの水準に達している本なのか確かめてみたかったからです。加えて、Amazonレビューやブログの書評などでは軒並み高評価。これは文学部哲学科に在籍する哲学徒の端くれとして厳しい目で読んでコメントしなければ!と、よくわからない使命感を日々高めてきました。ようやく昨日Amazonで注文して読んでみたので、いよいよ機は熟したわけです。

 以下では、『人生を危険にさらせ!』という本について、あくまで哲学書としての価値があるのかという観点からの感想を書いていきます。いくら目標は哲学者と日頃公言しているとはいえ、アイドルなんだからそんなにムキになって感想書くのは野暮なんじゃねえのかという声も聞こえてきそうです。でも、本人がこの本にを哲学書だとはっきり言っている以上、ファンとしてではなくただの哲学書の読者としての感想が少しはあったほうが本を書いた甲斐があるかもしれません(なんか偉そうですいません)。

    まぁ、言い訳はこれくらいにして、とにかく始めましょう。ただ、最初に言っておきたいんですけど何で共著者が社会学者なんですかね。そこは何とか哲学者を用意してほしかったところ。須藤凛々花×中島義道とか面白そうじゃないですか。絶対オファー受けないだろうけど。

 

本の概要と内容へのコメント

  で、この本の概要ですが、五つの章から成っています。そして、章の間にはコラムが挟まっています。このコラムは正直これといった内容は無いので、今回は言及せず、本編に集中したいと思います。この本編は、対話形式になっていて、基本的には先生役である社会学者の堀内進之介さんのレクチャーを聞きながら、それに応える形で須藤さんが質問や自分の考えを返していくという流れです。ただ、第1~4章までと第5章とでは少し趣が異なっているので、まず1~4章について考察していきます。

 第1~4章までの率直な感想を一言で言えば、「この本買うんじゃなかった!」でした(ごめんなさい)。以下、その理由を挙げます。まずは、知識の少なさ。アイドルだから容赦したい気持ちをぐっとこらえて、具体的に見ていきます。まずは引用。

 

 あ、それ知ってます。『リヴァイアサン』!「万人の万人に対する闘争」!わたしたちは、自由を求めて闘争すべきなんです!(98頁) 

 

うーむ。これはいただけない。この後堀内さんにもすかさず突っ込まれていますが、当然ホッブスの「万人の万人に対する闘争」という言葉の意味は、こんなものではない。この闘争状態は、社会契約が成立する以前の自然状態におけるものだからです。

 もちろん知識の不足をあげつらうというのは、時として批判のための批判でしかないときもあります。しかし、このホッブスの思想は、高校の倫理でも習うくらいのものです。できれば押さえておいてほしかったなぁと思うのが正直なところです。

 まぁしかし、時として予備知識なしでも鋭い哲学的な問いや思考がなされるということはもちろんあります。鋭い問いや思考が見出されるならば、先ほど指摘したくらいの知識の不足は吹き飛ぶかもしれません。このことを見極めるために、第1章の議論を例として取り上げてみましょう。

 第1章は、「生きることについて」と題されています。そのなかで次のようなことが言われています。

 

ふぅ、まあそのつまり、その、これ言うとすごくみんなひいちゃうんですけど、えーとつまりですね……うーんと、要するに、どうせわたしたち、みんな、死んじゃうじゃん? ってやつです。(40頁) 

 

アイドルなのにこんなことまで考えてんのか…と思われる方もいるでしょう。しかし、これだけは言っておきます。大学生にもなって哲学やっているような人たちにとっては、これくらいは通過儀礼みたいなもんです*1。というか、別に哲学やってる人じゃなくても、ちょっと背伸びした中学生とか高校生ならこれくらいのことは考えるものでしょう。

 ですから、問題はここからの思考の深まりです。しかし、須藤さんの議論はここで止まっています。その後、堀内さんの誘導でハイデガーの話とかもしていますが、もうここでは完全な聞き手になっています。

 他の章も終始こんな感じで、問題意識はあれどその問題に対する思考の深まりがあるかといえば、それはあまりないと言わざるえません。少なくとも私にとって目を見開かされるような議論はありませんでした。そして、こうして読み進めていくと、第4章の終わりで須藤さんと堀内さんが対話のなかで「決裂」します。ロールズの正義論に須藤さんが反発してもやもやしたまま第4章は閉じられます。

 第5章は、この「決裂」の後で須藤さんが自分で考えた対話(だから二人とも須藤さんの分身)から始まります。この部分では、第4章までの議論を須藤さんが振り返っているのですが、それまでの章とは少し違った印象を受けました。何というか、一段ギアが上がっている、とでも言えばいいのでしょうか。振り返って書いた(とされている)ものだから当然なのかもしれませんがよくまとまっていました。で、この対話を堀内さんに見せた後で、二人の対話は再開され、いよいよ結論と言ってよさそうなものに到達します。

 堀内さんに対して語られた結論は大体次のようなものでした。第4章の終わりのあなたの考えを私は受け入れることができない。しかし、だからといって自分の今の考えに固執しているだけというのは、哲学に対する正しい態度とは思えない。だから、受け入れることができるかは別にして、もっと哲学のことを教えてほしい。そして、先人たちの思想をそのまま受け入れるのではなくて、それを踏まえてあくまで自分にとっての問題を問い続ける、これこそが私の哲学に対する態度に他ならない。

 この結論は、「自分自身とともに、自分自身に抗して、自分自身で考える」というようにまとめられていました。つまり、この本の結論とは、哲学的な問いに対する何らかの解答ではなく、哲学にどう取り組むのかという姿勢だったのです。だから、先ほどの私のように内容についてとやかく言うのは間違いだったのかもしれません。

 

最後に

 もう別に終わりにしてもいいのですが、最後はあまりに無難な着地になってしまったので、少し補足を。

 この本では一貫して哲学=人生論(生き方を考えること)として考えられていたように思えました。第5章では、哲学は次のように定義されていました。

 

 自分自身の人生の途上で生じた、究極的には自分で立ち向かうしかない自分自身の問いを、考えることです。(181頁) 

 

もちろんここだけで須藤さんが哲学を人生論とみなしていると断定することはできませんが、全体の内容からしてもそう言って構わないと思います。これって結構一般的なイメージではないかと思います。「経営哲学」とか「サッカー哲学」とか言いますよね。

 で、この哲学=人生論というのはそもそも自明なんでしょうか。もちろん、まったくそうではない。そもそも人生って何でしょうか。人間が生きること?では、人間とは、生きるとは、一体どういうことでしょうか。

 人間とか主体とかそういったことに疑いをさしはさむというのが、二十世紀後半のポストモダンと言われた思想潮流の大きな特徴のうちの一つでした。さらにその後には、晩年のデリダがやったように動物論が話題になりましたし、現在では思弁的実在論といったものが出てきて、そうした論者の一部は人間とのかかわりを一切排して考えられたオブジェクト(モノ)の世界を論じています。つまり、今や人間を飛び越え、動物やモノが哲学における大きなトピックとなっているのです。かつて西洋中心主義がレヴィ=ストロースによって相対化されたように、ますます人間は相対化されていくかもしれません。

 細かい話はさておき、哲学=人生論という前提は、まったく自明ではありません。当然それを問うことももちろん重要ですが、それがすべてではないということです。須藤さんは、フーコーも引用していましたが、基本的には実存哲学が好きなようです。この実存哲学というのは、レヴィ=ストロース構造主義によって「乗り越えられた」と言われているものです。もちろんこうした「乗り越え」話に安易に乗っかるのは危険ですが、今後思考を深めていくためにも、現代の哲学にも目配せをしていってほしいと僭越ながら思いました。とにかく今後に期待したいと思います。

 

 

 

 

*1:私もかつて小学生や中学生の時には、自分が死んだ後の完全な無を徹底的に考えてみるという謎の作業を時々寝る前にやってました。あまりおすすめはできません。