アイドル批評空間

アイドルとかについて書くときがあります

【第4回】香月孝史『「アイドル」の読み方』を読む

――さて、今回は香月孝史さんの『「アイドル」の読み方――混乱する「語り」を問う』〔注:青弓社、2014年〕という本についてですね。

 

はい。前回までのアイドルの定義を踏まえて、この本のなかでもとりわけ私が重要だと考える部分についてお話ししようと思います。

 

 

――その前に、もう一度アイドルの定義をおさらいしてもらっていいですか?

 

もちろんです。私が示したアイドルの定義は、「アイドルとはアイドルである」というものでした。つまり、アイドルたる要件は、自らがアイドルだと名乗ることだということです。実は、このことはすでに香月さんが指摘していることなのですが〔注:『「アイドル」の読み方』第2章を参照〕。さらに付け加えておくならば、こうした特性によって、いまやアイドルというジャンルの個々のグループあるいは個人は、「メディア」として機能していると言うことができると思います。

 

――それは、ファン同士がアイドルを通じて交流するということ?

 

それもあります。でも、それだけじゃない。前回までで見てきたアイドルの楽曲の多様性を考えればわかるように、様々なジャンルの音楽が混ざり合う「メディア」であると言えますし、さらには、作り手の側の様々な才能や技術が融合する「メディア」であるとも言えます。こうした自由度の高さは、アイドルというジャンルを利用して作り手がやりたいことをやる、という発想を生んでいると思います。この時、アイドルのメンバーもあくまでそうしたやりたいことを実現するための一つの要素にすぎないわけです。つまり、メンバーの個性とかイメージに基づいた曲作りやイメージ戦略を行うことがない。ほんの一例ですが、Especiaとか校庭カメラガールとかがそうだと思いますね。

 

――なるほど。ではそろそろ本題に入りましょう。

 

そうですね。今回は、『「アイドル」の読み方』の第3章に絞ってお話ししようと思いますが、一応全体についても軽く触れておきましょう。まず強調しておきたいのは、この本は、現在アイドルについて考えようという人ならばこれを読まないというのはちょっと考えられないというぐらいのものだということです。もちろん私だってこの本から提起されうる問題全てを引き受けている、などと言うつもりはないですが。それで、全体としては、混乱している「アイドル」という語の多義性に着目し、まずはその語義を、①「偶像」としての「アイドル」、②「魅力」が「実力」に優るものとしての「アイドル」、③ジャンルとしての「アイドル」に分類することで、アイドルについて議論するための交通整理を行っています。他にもアイドルと恋愛などの興味深いトピックについて論じていたりしますが、一番の問題意識は、「アイドル」という語の意味を整理することにあったんだと思います。

 

――では、第3章はどのような内容なのですか?

 

第3章では、先ほど示した分類のなかの②に関連する事柄を論じていています。その中でも私が特に注目したいのは、近年のアイドルが、「アイドルらしからぬ」アイドルという形で語られているということを示している点です。そして、この「アイドルらしからぬ」という否定的な語り方からわかるように、こうした言説は、アイドルは「実力」(とりわけ音楽性)において劣っているということを前提としています。これはもちろんステレオタイプ的な見方でしかないのですが、アイドルに興味のない人のあいだでこうした見方が根強く残っていることは事実ですよね。だから、「アイドルらしからぬ」という言説は、このステレオタイプを逆手に取っているわけです。

 

――そうした状況を香月さんはどう捉えているのですか?

 

香月さんは、第3章の最後の方で次のように述べています。

この「アイドルらしからぬ」という批評が旧時代のものになったとき、アイドルは自らをPRするにあたって何に活路を見出すかという、新たな岐路を迎えるのかもしれない。〔128頁〕

このように、香月さんはこうした状況を確認するに留めているのですが、私はここからもう一歩踏み込みたいと思います。

 

――それはどのように?

 

ポイントになるのは、まず「アイドルらしからぬ」といった言説を生み出しているのは、アイドル自身や運営あるいはファン、要するにアイドルに対してステレオタイプ的見方を採らない人たちであるということです。まぁ、ステレオタイプ的見方を逆手に取るわけなので、当然のことなんですが。そして次にポイントになるのは、「アイドルらしからぬ」というのは、音楽性に関してであれ内面的なものに関してであれ、結局のところ「アーティスト的」と同義だということです。つまり、アイドル/アーティストという二項対立が前提とされている。東京女子流のアーティスト宣言なんかを考えてもらったらいいと思います。とにかくまとめると、アイドルに対してステレオタイプ的な見方を持っていない人たちが、アイドル/アーティストという二項対立を前提として、ステレオタイプ的な見方を逆手に取る形で、アイドルを称揚している、ということになります。私はこの状況を問題視したい。

 

――なぜこれが問題なのですか。こうしたやり方で現に多くのアイドルがある程度の成功を収めているのではないですか?

 

確かにそうです。しかし、「アイドルらしからぬ」といった否定的な語り方、もしくは「アーティストのような」といった間接的な語り方では、いつまでたってもアイドル/アーティストという二項対立は解消されないばかりか、むしろ強められていってしまう。しかも、アイドルを運営する・応援する側の言説によってですよ。だから、私の考えをスローガン的に言えばこうなります。「アイドルの力をそれ自身によって肯定せよ!」

 

――なるほど。しかしなぜそこまでアイドル/アーティストという二項対立を敵視するのですか?そこがわかりません。

 

そのことをお話しするにはもう時間がないので、次回お話しします。具体的には、アイドル/アーティストという二項対立が、日本の音楽においていかに機能しているのかについての私の仮説を示したいと思います。それを話し終えた後で、アイドルを運営する側がこうした二項対立を前提している具体例として、Especia「Primera」のライナーノーツを読んでいきたいと思います。

 

――わかりました。次回またよろしくお願いします。