アイドル批評空間

アイドルとかについて書くときがあります

記号と空白――ドッツのふたつの定期公演について

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)は基本的に毎月一回定期公演を開催している。12月は「Tokyo in Words and Letters」が開催された。そして2月には「Tokyo in 『         』」が開催される。言葉と文字あるいは手紙(まとめて以下では記号と呼ぶ)、そして空白。両者は表裏一体であって、そのことはこれら二つの定期公演の間=1月に発売されたドッツのファーストアルバム「         」のジャケットにおいて、視覚的に表現されている。そんなことを以下に書き残しておきたい。

 ひとはアイドルについてやたらと何かを語る。書きたくなる。それは音楽のことかもしれないし、メンバーの容姿や性格のことかもしれないし、グループの物語についてかもしれない。もちろん私たちは東京そのものでもあるドッツについて、やはり何かを書くだろう。書こうとするだろう。記号における東京(Tokyo in Words and Letters)。

 ひとはアイドルにかんするあれこれには、記号による表現を使うだけでは尽くせない何か=空白が、あると考えている。ライブの熱量、あの子の尊さ、ライブ後の語らいの高揚感。このことは、言葉を紡ぐためだけの運営=コンセプト担当がいるドッツであっても、当然当てはまることだ。空白における東京(Tokyo in 「         」)。

 こうした二つの側面は、どうしても相容れないもののようにおもえる。でも本当にそうなのか。

 「         」のジャケットを見て頂きたい(見れないよって人はまず買おう!)。9本の線が、縦に走っているのが見て取れる。なぜ9本か。それはグループ名の・の数に合わせているからだろう。ということは、これらの線は・ちゃんだということになる。しかもこの線はただの線ではなく空白だ。空白のなかに・ちゃんがいる。というかそこでは、・ちゃんは空白として現れている。空白における東京。

 しかし、空白はそれだけでは空白として認識されない。それを空白として浮き立たせる何かが必要だ。アルバムのタイトルにおいて、空白をそれとして浮き立たせているのは「」だ。この括弧は、私たちが・ちゃんを観測するというその作用を表しているのだと考えよう。ここで大事なのは、そもそも観測する気にさせる何かが、空白が、あったからこそ観測は行われたのだということ、しかし他方では、観測によってこそその空白は認識されるに至ったのだということ、これらのことである。空白と観測は不可分のものなのだ。

 再びアルバムのジャケットに戻ろう。そこで空白はたちは、東京についての様々な言葉に囲まれることで浮かび上がってきている。このことは次のように解釈できる。①記号による表現では決して尽くせないアルバムの楽曲たち。でもそれはやはり記号によって浮かび上がる(収録されてる曲が9曲だったなら…)。②東京については実に様々なことが語られるし書かれてきた。でもそこには記号で尽くせないようなノイズもまた存在していて、でもやはりそうしたノイズは記号によってこそ浮かび上がる。等々。

 なんだか空白にいろんな意味が読み込めてしまうが、空白である以上それは当然だろう。少なくともここで確認してみたかったのは、空白と観測、特に記号を介した観測、これらが入り組み合っていて互いを切り離すことができないということだった。だから12月の定期公演は2月の定期公演によってより完成されるし、その逆もまた真なのだ。

 また、以上の短い文章からでもさらにいろんな展開が生まれてきそうだ。例えば、ノイズとしての・ちゃん、もっと言えば都市のノイズに対するノイズとしての・ちゃんというインタビューで語られていたテーマにかんして。あるいは、現場の純粋な体験に記号というまがいものがすでに混ざりこんできているということにかんして。このことは、「現前の形而上学」としての現場(=現前する場所!)中心主義にたいするデリダ的応答の仕方を示唆しているだろう。話が散らかってきた。どうやらこの文章によってもまだ見ぬ広大な空白が浮かび上がってきたらしい。

ドッツのコンセプト解説の解説④

1。都市として運営する

 都市として運営するとは、運営陣個々がバラバラでありながらも、なんとなく一定のまとまりを持っているかのような形で運営が行われていくということ。実際の都市も、全てが綿密な計画の下に開発されたわけではないが、それでもやはりその都市の特有の雰囲気とか一定のまとまりがあったりする。同様に、ドッツ運営陣はみんなバラバラでありながら合議を経てそれぞれの思惑のどれとも違う何かが生まれ、後からそこに一貫したロジックがあったかのように語られる。だからコンセプトがあってそれに従ったコンテンツがあるというよりも、コンテンツという具体的な成果の後で、それにある程度の統一性を与えるためにコンセプトが動員される。

 次にドッツの都市性について。まず都市の3つの特徴の確認から。①出会いたい人に自覚的に出会える場。②思わぬ新しい偶然の出会いがある場。③今まで知っている世界に、何度も別の仕方で出会う場。①は最近のアイドルグループ自体の多様性と、そのメンバーの女の子の多様性に対応している。しかし、ドッツは②③にも対応している。アイドルというフィルターを通して、自力では出会うことのなかったかもしれない音楽や人に偶然出会うこと(②)。さらに、・ちゃん=都市というコンセプトによって、今まで何とも思わなかった都市の中の様々な場所やモノなどに、・ちゃんを見出すこと(③)。

2。・・・・・・・・・というグループ名について

①集団の融通無碍性・非本質主義を体現している

 ・・・・・・・・・は記号なのか沈黙なのか模様なのか何なのか、そもそもグループ名なのか、全然わからない。だから人や状況によって捉え方が変わるので、この名前はグループの多面性を表現できている(融通無碍性)。また、これを何と呼ぶかを最終的に決める権力を誰も(運営ですら)持っていない(非本質主義)。

 ただし、注意しなければならないのは、ドッツが融通無碍の、何でもありのグループだということ自体にはもう価値がないということ。重要なのは、何でもありの中でじゃあ何を生み出すのかということで、そのためには「王道アイドル性」というコンセプトが重要になる。

②象徴的な図形をハッキングできる

 ・や・・・・・・・・・は、いろんな円形のものに見立てることができるので、様々なものを・ちゃんに見立てることができる。・は様々なモノに形態変化するが、女の子の・ちゃんもその中の一つ。それらの形の間に優劣はない。

 また・ちゃんは、人間あるいはモノであるだけでなく、情報でもある。そしてそうした情報・人間・モノを等価に生み出すエネルギー=流れこそが都市であり、そのエネルギーが何らかの形で観測されると、情報や人間やモノになる。

③検索できない

 ・・・・・・・・・は簡単な文字列で、ウェブ上で公開されている情報なのにGoogleで検索できない。つまり、情報化されているが検索の網にはひっかからない。これは、検索結果が世界であるという立場とも違うし、それに対して検索できない現場の体験を持ち出すという立場とも違う、ドッツの立ち位置を象徴している。

3。無名性とランダム性について

 「・ちゃん」という表記は、誰なのかわからないうえに、単数か複数かもわからない(無名性)。こうした揺らぎを制度化したものが「ランダム性」である。

 また、無名性を都市と関連させて説明すれば、・という名前は、一人あたり10万人分の名前が重ね書きされたことで判読できなくなったもの(重名性)。さらに・ちゃんは、「サングラス的なやつ」によって特定の顔ではなく、様々な顔のイメージに開けている。以上二点によって、・ちゃんは普遍性を持つ。

 ・ちゃんの無名性が持つ揺らぎは、アイドルとの一対一関係をズラす力として働き、「ハコ推し」の雰囲気を作り出す。加えて、・ちゃんの持つ普遍性によって、この「ハコ推し」は、東京という都市の「ハコ推し」へと広がっていく。個人的な好意が、都市全体へと広がっていくような回路が用意されている。

「この私」に常に取り憑くアイドル――・ちゃん、幽霊、量子力学

 「会いに行けるアイドル」から「常に纏えるアイドル」へ。あるいはさらに、「この私」に常に取り憑くアイドルへ…。・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプトに忠実に、もしかしたらドッツ以上にそのコンセプトに忠実に、その参照点である東浩紀の議論を参照しつつ、「この私」に取り憑いている幽霊としての・ちゃんのありさまを描いてみたい。以下で断片的な形ではあれ試みられるであろうことにかんして、さしあたりこのような表現を与えることができるでしょう。しかしここから一体何が得られるのでしょうか。

 一つ目。これがメインですが、・ちゃんを「この私」に常に取り憑く幽霊として捉えることで、よりその存在感(存在ではない!幽霊なので)を感じることができるようになるのではないか、ということです。現在、「常に纏えるアイドル」というコンセプトがあったうえで、そのコンセプトを実装化するためのテクノロジー(HeartSync、都市の幽霊観測装置など)の導入が進められています。ただ、常に纏えるという状態を実感できるような段階に至っているとは言えないでしょう。このような知覚を介してコンセプトを実感するという位相からズレて、もう少し抽象的なレベルで、身に纏おうとする以前にそもそも絶えず「この私」に取り憑いているような幽霊として、・ちゃんを考えてみたいのです。

 こうした議論の過程で、・ちゃんは誰でもありうるにもかかわらず、いやだからこそ、余人をもって代えがたい存在であると感じることができる、という逆説的な構造もまた露わになってきます。さらにこれと同時に、・ちゃんはなぜ「観測」されると言われるのかについても、一つの見通しを示しておきます。そしてここでもまた、東の議論からの強い影響を見て取ることができるでしょう。これらが以下の議論から得られるはずのことの二つ目になります。

 いずれにせよ、幽霊としての・ちゃんを考えるにあたっては、幽霊という言葉の意味合いを、とりわけ東が用いる限りでのその意味を、まずは確認しておく必要があります。そのために参照されるべきは、『存在論的、郵便的』という東の著作です。これはジャック・デリダというフランスの哲学者について論じたものであり、幽霊という言葉ももとはデリダによって用いられています。そして東は、デリダの幽霊論を扱うにあたって、バートランド・ラッセル、ソール・クリプキ柄谷行人らによる固有名にかんする議論と共に論じています。というわけで以下ではまず、幽霊についての議論を確認していくための準備として、東による固有名の議論について、整理を行うことにしましょう*1

 固有名とは何なのか。ラッセルによれば、それは縮約された確定記述の束だ、ということになります。これに対して、クリプキおよび柄谷は、固有名はそうした確定記述には還元されえないものだ、固有名には剰余があるのだ、と応じます。

 もう少し具体的に説明してみます。試しにドッツの公式サイトを開いてみましょう。九つの点が、画面上を浮遊しています。一つだけ適当に押してみます。「橋本環奈ちゃん」とか「AB」といった言葉が飛び出してきました。これらは特定の質問に対する答えのはずなので、「橋本環奈ちゃんが好き」とか「血液型はAB型」みたいに書き換えることができます。こうしたある個人の性質にかんする記述を、確定記述と呼びます。ラッセルは、こうした記述を集めれば、それがすなわち「・ちゃん」という固有名に等しいと考えるわけです。でもそれってどうなの…って直感的に思わないでしょうか。いくらその・ちゃんについての記述をかき集めてみたところで、・ちゃんという固有名で名指されるあの女の子のすべてを言いつくすことができるなどと考えることには、どうしてもためらいを感じないでしょうか。そんな記述を超えた何か(=剰余)があの子にはあるはず。クリプキと柄谷もそのように主張し、柄谷はその剰余を「単独性」と呼びました。

 これで固有名の剰余についてはあらかた理解できるのではないかとおもいますが、どのようにしてクリプキ/柄谷がラッセルの主張を退けるのかについても触れておきます。なぜ固有名は確定記述の束に還元できないのか。それは、ある固有名についての一つの確定記述にかんして、常にその反実仮想(~でなかったかもしれない)を考えることができるからです。例えば、「アリストテレスアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」と語ることができますが、もしアリストテレスを「アレクサンダー大王を教えた男」によって定義していれば、「アレクサンダー大王を教えた男はアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」となり、矛盾が生じます。こうした矛盾は、ほかの確定記述にかんしても同様に生じうる。ゆえに、固有名は確定記述の束には還元しえない、となるのです。つまり、固有名には訂正可能性が絶えず付き纏っているのです。

 ここまで確認してきたことを踏まえれば、まず固有名の剰余(固有名は確定記述の束とは無関係であり、ただ個体を個体として指示するのみ)があって、その次に固有名の訂正可能性がある、というように理解できるかもしれません。しかし、そうではない。むしろ反対なのです。東は絶えず取り憑くこの訂正可能性を幽霊と呼びますが、まさにまず初めに幽霊がいるのであって、そのあとこうした幽霊を見ないようにすることで固有名の剰余が生じているのです。引用しておきます。

固有名の訂正可能性、つまり「幽霊」たちは経路の脆弱さから生まれる。その経路を抹消して主体の前にある(=現前の)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見出す。すなわち単独性は幽霊たちを転倒することで仮構される。*2

ここで言われている「経路の脆弱さ」とは、固有名が伝達されていく過程で、それにかんする確定記述のいくつかが齟齬をきたすようになったり、そもそもある確定記述が行方不明になったりする、ということを指し示しています。こうしたコミュニケーションの失敗があるからこそ常に訂正可能性という幽霊が存在しているのであり、こうした幽霊がさまよう空間を、東は「郵便空間」と呼んでいます。

 とにかくポイントは、「幽霊=訂正可能性⇒固有名の剰余」という順番です。東は別の著書で次のようにも述べています。

固有名とは、名前が社会のなかで伝達され、さまざまな「誤配」や「誤解」に曝され、いく度も訂正されることではじめて生まれるものである。*3

しかし東はここで同時に、訂正を生むことになる「誤配」の可能性が、情報技術の発達によって減っていることを指摘しています。そしてそこから、情報技術の支援を受けることで、特定の個人についての確定記述がどんどん蓄積されていって、もはやそれらデータの集合に固有名は尽きる、ということになってしまうのではないかという疑いも生じてきます。つまり、固有名の訂正可能性というものは、単にコミュニケーションの複雑さに技術が追い付いていなかったことから生じていただけだけなのしれない、といった疑いです。

 こうした現状認識のもとで東は、「誤配を引き起こす」ために必要なものとして、「匿名性」を挙げています。匿名性を確保することで、誤配を、固有名の訂正可能性を担保し、固有名に宿る剰余という感覚を生じさせること。ますます自分についての確定記述が蓄積されていくなかで(Twitterがそのいい例です)、「この私」の感覚を生じさせること。これが匿名性の効果であり、・ちゃんにおいてはまさにこの匿名性が確保されているといえます*4

 以上のような意味で、・ちゃんは匿名的な存在です。・ちゃんという名前では各メンバーを区別できないので誤配が生じやすくなります。例えば・ちゃんのツイートは、その内容や文体からどの・ちゃんのものであるかを予測することはできますが、直接・ちゃんに確認でもしない限り、最終的にどの・ちゃんのものであるかを確定させることはできません。とうぜん誤解が、誤配が生じやすくなっています。

 ここまで確認してきたように、まず今とは別様であったかもしれない可能性、および今とは別様になりうる可能性(以上をまとめて訂正可能性と呼びました)、これらが固有名に付き纏うようにして存在しており、次にこうした可能性=幽霊を無視して、今目の前にある固有名のほうから考えることによって、固有名の剰余という感覚は生じるのでした。だからこそ訂正可能性つまりは誤配の可能性が減るということは、固有名の感覚を生じさせにくくする。これが東の固有名の議論です。そして・ちゃんはその匿名性によって誤配可能性を確保しています。それゆえにそれら別様でありえた/ありうる可能性のほうから、それを否定して、まさに「他(=別の可能性)ならぬこの私」としての・ちゃんの固有性を感じることができる。おそらくこのように言うことができるとおもうのです。

 そしてここを踏まえれば、次のようなドッツ運営の発言を読む際に、それが意味するところの厚みがが増してくるのではないでしょうか。引用します。

コンセプト・レベルで、人よりも場や都市の力を称揚したい思いはあります。実はメンバーの数がよくわからなくなる仕組みも考えたりしているんです。一方で、これは明言したいんですけど、この子たちがいいと思って採用しているので、いまのメンバーじゃなきゃダメなんです。

こうした発言にも今まで書いてきたような背景があると考えれば、ただの詭弁だと受け取るのは以前より難しくなるかもしれません。

 とはいえ、ここまでの話は話の半分です。まだ・ちゃんと彼女たちを応援する「この私」との関係の話が残っています。しかしその前にまず、「観測」という言葉が意味するところについて確認しておきましょう。確認しているうちにだんだん本題に向かっていきます。

 まず初めに確認しておきたいのは、「観測」という言葉が量子力学を意識して使われている、ということです。少し説明してみます。量子力学によれば、ミクロの世界において物質の状態は「重ね合わせ」として理解されます。例えばある電子はAあるいはBという場所にある確率がそれぞれ50パーセントずつであり、この電子は、それがAにあるのとも、Bにあるのとも違った、重ね合わせの状態として理解されるのです。そして、その電子が観測されると、状態の収縮が生じ、AかBいずれかの場所において観測されることになるのです。

 こうした重ね合わせの状態、これは・ちゃん一人あたりに10万人の女の子が重ねあわされていながら、・ちゃんはしかしそれら10万人の女の子の誰とも違う者として、あるいはそうした東京の女の子たちを出現されるエネルギー=都市としてとらえることができるというような事情と重大な関連を持っているはずです。そして、そうした抽象的な・ちゃんが観測されてまさに点に収縮することで、私たちは実際にある特定の女の子としての・ちゃんと話したりすることができるようになる、ということです*5

 しかし、以上の説明で説明されてていないことがあります。それは、なぜ状態の収縮が生じるのか、ということです。この収縮を説明するものとして、量子力学には「多世界解釈」という解釈があります。これによると、電子が観測されるとき、それがAにおいて観測された世界と、Bにおいて観測された世界とに枝分かれしている、ということになります。当然それら2つの世界にいる私もまた、まったく別の私であるということになります。何かを観測することは、文字通り私を、世界を、一変させるということになるのです。もちろんこの解釈は一つの考え方であり、これが正しいと実証されているわけでもありません。ただ、この解釈から・ちゃんとそれを観測する「この私」との関係についてのイメージを得ることはできるとおもいます。  

 ここからようやく・ちゃんと「この私」との関係についての話に進んでいく前に、幽霊としての・ちゃんと量子力学を連想させたきっかけを書いておきます。それはやはり東の議論です。東は、幽霊が徘徊している空間、つまり誤配が生じる郵便空間にかんして「確率的」という言葉をしばしば使います。これはある程度量子力学を念頭においているようにおもえます。また、『存在論的、郵便的』の後に東は、『クォンタムファミリーズ』(=量子家族)という小説を書くのですが、この小説が雑誌で連載されていた時のタイトルが「ファントム、クォンタム」(=幽霊、量子)であり、量子力学が描き出す世界と幽霊とが重ね合わせて考えられていることは明らかです。

 さて、以上の確認をしておいたところで、いよいよ本題に入ります。・ちゃんと「この私」との関係について。どんなアイドルにも当てはまることですが、アイドルを好きになるとそのアイドルへの憧れが生じます。つまり同一化の対象となるのです(だから振りコピしたくなる)。アイドルへの同一化を望むとき、何が起きているのか。それは、今の自分とは別様でありえた可能性、そして今の自分とは別様でありうる可能性、こうした可能性を、夢見ているのではないでしょうか。

 あの時別の選択をしていたら今とは全然別なようになっていたのではないか…。これからは今とは全然違うようにやっていけないだろうか…。たぶん私たちは頻繁にこういった夢想を抱いてしまっているし、それゆえに過去と未来の別の可能性という幽霊に常に取り憑かれていると言えるでしょう。そして幽霊であり、一人でとてもたくさんの人を象徴している・ちゃんは、まさにそうしたたくさんの可能性を体現しています。だから憧れます(もちろんそれだけが要因ではないでしょうが)。

 しかし。いくら憧れて、いくら近づこうとしても、同一化は失敗します。・ちゃんは他者だからです。もちろん一度同一化に失敗しても、憧れはまた幽霊のように回帰し、再び同一化を夢見るでしょう。そしてまた失敗する。こうした失敗をするたびに、・ちゃんが体現しているところの今の自分とは別な可能性は否定され、同時にそうした可能性のどれとも違うものとしての、「他ならぬこの私」という感覚が生じるのではないでしょうか。今とは別様の可能性を、固有名の訂正可能性を告げ知らせてくれると同時に、やはり完全に同一化することはできない他者。この二つの特性を併せ持つがゆえに「この私」の感覚を強化してくれる存在。これこそが幽霊としての・ちゃんではないでしょうか。

 まとめます。今の時代、自分が自分であることの固有性を感じることは難しくなっている。「僕は誰だ」。そんなとき、へんてこなアイドルグループのメンバーに出会う。「君は誰だ」。君の名前は・ちゃん。ほどなくして憧れの対象となる。「僕と君が繋がり続けるそんな日が来ることを願ってる」。「僕は君だ」という同一化した状態を夢見る。しかし、・ちゃんは他者だからどうしたって同一化の試みは成功しない。そしてここから、・ちゃんが体現している別様の可能性とは違う「この私」の感覚が生まれる。「僕は僕だ」。でもよく考えてみると、「僕は僕だ」という一見するととても当たり前のことに思えるこの感覚は、「僕が君でなかったら」、つまり君(=幽霊)がまずいて僕はそれとは違うものだ、というふうに考えることで生まれてくる。だから「僕が君でなかったらそんな夢想ですら君なんだ」。「君なんだ」というのは、君のおかげだということと考えておきましょう。君のおかげで、僕は君ではないと、「この私」なのだと感じることができるのです。

 さて、「この私」に取り憑く幽霊としての・ちゃんについて考えてきました。最初はまず「この私」がいて、その私に幽霊が取り憑いている、という話だと思われたかもしれません。しかし、ここまでで明らかになったのは、「この私」という感覚は、むしろまず幽霊がいてこそ生まれてくるものだ、ということでした。ひとが・ちゃんを愛するとき、・ちゃんに憧れ、同一化を試みるも失敗し、それを通じて「この私」の感覚が生じる。こうしたことが起こっている。いや、起こっていると後から考えることができる。このような意味で、・ちゃんは幽霊なのです。こう考えることによって、少しでも・ちゃんの存在感を身近に感じることができるのではないでしょうか。

 

 

 

 

*1:以下の内容はあくまで東の議論を再構成したものです。そこでのラッセルやクリプキにかんする東の理解が正しいのかといったことは、ここでは問題になりません。

*2:東浩紀存在論的、郵便的ーージャック・デリダについて』新潮社、1998年、128頁。

*3:東浩紀大澤真幸自由を考えるーー9・11以降の現代思想』2003年、NHK出版、190頁。強調は引用者。

*4:ただし・ちゃんが匿名的であるということは、一人あたり10万人の東京の女の子の名前が、個性が重なりあった存在であることから帰結するものであることは確認しておかなければなりません。

*5:これを踏まえて、ドッツの1stシングル「CD」を次のように解釈することができます。このCDには「Tokyo」という曲だけが収録されています。まずは短めのノイズから始まり、次いで「普通の」楽曲が3曲あり、それら楽曲の間はまたノイズでつながれています。3曲目の後はおよそ50分にわたってノイズが続きます。この曲において、「普通の」楽曲が流れている部分は、都市の力がアイドル=具体的な女の子としての・ちゃんとして観測されていることを表しています。そしてそのほかのノイズの部分は、まさに都市にあふれているノイズのように、どこにでも存在する抽象的なもの、都市の力=エネルギーを表しています。このような意味で、「Tokyo」という楽曲はまさに都市そのものなのです。

「女の子の東京」をつくろう

世界中の女の子憧れる都市は、決まっている。
パリ、ニューヨーク、ロンドン、東京
私はそれらの都市を、身に纏いたかった。
東京という都市の殻を、自分の身に。
そうするには、自分の身を、削って削って細く、邪魔にならないようにして、そっと都市の殻の中に挿し入れるしかないと思っていた。 その殻を纏えば、自分はこれまでとは違う自分になれる。洗練された人になれると信じていたし、全身で「東京の人」になろうとしていた。
それは、自分のかたちを削っていく作業によく似ていた。
悪目立ちするのは田舎者っぽいから、場に溶け込むように、浮かないように。自分の知らない都会の、見えないルールから外れないように。大声を出さないように、感情をむきだしにしないように。 

こういうのが「東京の女の子」なのだと思うかたちに、自分を近づけていくのは、楽しいとか苦しいとかではなく、そうすべき義務のようだった。「東京の女の子」になるために東京に来たのだから。(『東京を生きる』51-52頁)

 

 憧れの都市、東京。女の子はそこで、東京という都市を、その殻を、身に纏う。そうしてその殻のなかに自分を押し入れ、自分を削り、「東京の女の子」になる。そんなとき、「東京の女の子」たちに誰かが呼びかける。アイドルになろう。「女の子の東京」をつくろう。

 「東京の女の子」たちは、アイドルとして、大声を出し、感情をむきだしにし始める。そして、憧れの女の子=アイドルになっていく。もう女の子は東京に憧れているだけの存在ではない。むしろたくさんの人が女の子に憧れている。

 女の子たちはさらに都市への反撃を開始する。女の子たちはどんどん都市をハックしていく。ひとは、都市のそこらじゅうに女の子の存在感を読み取る。かつては憧れの都市を身に纏っていて自分を押し殺していた女の子たち。彼女たちが、今度は憧れの対象になって、いろんな人たちがその女の子たちを身に纏うことになる。そして憧れの女の子=アイドルは、いつの日か憧れの都市=東京と重なりあう(女の子=東京)。私的な思いやりと公共的な思いやりとが直結するだろう。

 「女の子の東京」をつくろう。誰かがそう言ったとき、「の」の用法は、所有格でも連体修飾格でもなく、主格(=「が」)だった。繰り返す。「女の子の東京=女の子が東京」をつくろう。

 

ドッツのコンセプト解説の解説③

 今回は要約ではなく、ただ感想を書き散らす形でいきたいと思います。今回のコンセプト担当の文章も、例のごとく長かったのですが、その途中でも出てくるように、ひとまず都市というコンセプトを念頭においておけば理解しやすい部分があるのではないかと思います。以下で、少し展開させてみます。

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・ちゃんの課題図書を読む②

『観光客の哲学』の第1部はこちらからどうぞ。

 

第2部 家族の哲学(序論)

第5章 家族

1、なぜ家族について考えるのか

・これまであったアイデンティティ

①個人→資本主義(グローバリズム

②共同体→国家主義ナショナリズム

③階級→共産主義

⇒かつては、共産主義が個人と国家を同時に批判していたが、いまや共産主義は力を失った。だから、新たに個人と国家を同時に批判するための足場(=アイデンティティ)をつくる必要がある。

⇒観光客が拠りどころにすべき、第四のアイデンティティとは、家族である。

・私たちのなかにいまだある「家族的なもの」への執着を利用して、どのようにして新しい連帯をつくれるのかを考えることが、家族の哲学の課題。

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ドッツのコンセプト解説の解説②

 以下で示すのは、ドッツ運営が振付師のかたに送った文章「東京マヌカン 歌詞解釈とカバーコンセプトについて」についてのみの要約になります。今回のコンセプト担当の記事は、おおよそこの文章の内容に尽きます。

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・ちゃんの課題図書を読む①

東浩紀『ゲンロン0――観光客の哲学』

                                       

 

第1部 観光客の哲学

第1章 観光

1、観光客の哲学は他者の哲学である

・リベラル知識人(あるいはその背景にある欧米の思想)は、つまるところ「他者を大事にしろ」と言ってきたが、人々は世界中で「他者とつきあうのは疲れた」と主張し始めた。

・こうした状況の中で、正面から「他者を大事にしろ」と唱えるのではなく、ただ自分の満足を満たすためだけの観光という「裏口」から「他者を大事にしろ」という命題のなかに引きずり込むことが観光客の哲学の目標。

☆みんな自分(たち)のことで精一杯なのに、賢そうな奴らに「他者を大事にしろ」とか言われてもなかなか受け入れられない。だから、自分のことだけ考えてやる行動をしてるうちに他者への思いやりみたいなものが生まれるような仕組みを考える必要があって、それこそが観光なのではないか。

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ドッツのコンセプト解説の解説①

    大きく分けて、二つの話が書かれてあった。まずは「アイドルの枠」問題に絡めながら、アイドルそのものについて(第2節)。そして二つ目に、アイドルと批評の関係について(第3節)。

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Tokyo in Books――・・・・・・・・・の思想的背景について

1、はじめに

 この記事では、2016年9月から活動している日本の女性アイドルグループ「・・・・・・・・・」(以下、ドッツと表記)のコンセプトの思想的背景を明らかにしていく。端的に言えば、ドッツのコンセプトに大きく影響を与えていると考えられる思想家・評論家として、東浩紀宇野常寛濱野智史の名前を挙げることができるだろう。基本的にはこの三者の議論を辿ることが多くなるが、彼らの議論における共通の問題意識をより明らかにするために、まず大澤真幸による戦後日本の時代区分を確認し、その後で東の議論および宇野・濱野によるAKB48にかんする議論を見ていき、ドッツのコンセプトとの関連や差異を浮かび上がらせることにしたい。

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・・・・・・・・・2ndシングル「Tokyo in Cage」について

    現在「アイドルと芸術」展で展示されている・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の2ndシングル「Tokyo in Cage」を鑑賞してきました。主な感想は3つ。1つ目と2つ目は短くて、3つ目は少しだけ長くなります。では1つ目から。

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古村雪「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」を読む

 タイトルが長くてすみません。今回の記事は、・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプト担当である古村雪さんが2014年に書いた「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」(以下、「作者解説」と表記)の一部を読んでいき、そこから読み取れる内容とドッツのコンセプトとの関連について探っていく、というものです。少し長めになります。

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・・・・・・・・・はなぜ王道アイドルなのか

    ・・・・・・・・・(以下、ドッツ)は紛うことなき王道アイドルです。しかしそれは、いかなる意味においてのことでしょうか。

    ドッツはよくへんなことをやります。コンセプト担当はインタヴューでいつも小難しいことを言ってます。しかしその一方で、特に何も考えなくとも、パフォーマンスを楽しむことはできます。ノイズだけでなく親しみやすい楽曲もあります。かくて、ドッツは王道アイドルでもある…。

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・・・・・・・・・1st single『CD』について

    ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の初のシングルである『CD』が、昨日リリースされました。実はこの記事を書いている時点でまだ『CD』は聴けていないのですが、ツイッターのTL上に流れてきた感想を踏まえた上で、現時点での感想を残しておきます。 

 まず『CD』の収録曲は一曲であり、その長さは72分。より詳しく言えば、72分の中に「普通の」曲が三曲入っていて、その間がノイズでつながれている(らしい)。ほとんどノイズじゃないか!でもこれはとても面白いと思う。個人的に面白く思ったことが二つあったので一つずつ書いておく。

 これだけ長い間ノイズが流れているから、真面目にぜんぶ聴いていたらどうにかなりそうだ。実際、こんなツイートを見かけた(以下、表現には元のツイートとの異同がある)。「後半はノイズばかりで最後まで聴いていたら、聴き終わってからも周りの物音=ノイズが曲に聞こえるようになった」。すごい!これでこそ身に纏えるアイドルじゃないか!

 多分よくわからないと思うので、少し説明する。周知のようにドッツのメンバー名前はそれぞれ・である。しかしここで、まず女の子たちがいて、次にその彼女たちに・という名前が与えられた、というような考え方をしてしまうと、ドッツを理解するのは難しくなる。まず・ちゃんがいる。次にその・ちゃんが時には女の子として、またある時にはCDとして、曲として、音声として、匂いとして、心臓の鼓動として…というように多様な形で現れてくる。こう考えた方がいい。

 これを踏まえて改めて先のツイートを考えてみる。曲という形で現れていた・ちゃんたち。曲が終わる。周りからは色んな物音。いつもは気にもしなかったか、何なら鬱陶しいとすら感じていたかもしれない多様な音たちが、今では曲に聞こえてくる。ここで・ちゃんたちは、私たちの周りの様々な音にまで滲み出ていって、私たちを取り囲む。『CD』の収録曲のタイトルは「Tokyo」だが、まさにこの曲は私たちの周囲を取り巻く都市そのものになるのだとも言える。

 こうして考えてくると、ドッツとノイズとの関係についてまだまだ考えることはありそうだ。しかしここでは、二つ目に移る。

 私たちがアイドルの楽曲を聴いているとき、それは何のために聴いているのだろうか。好きなグループの曲だから、曲がいいから、盛り上がるから。本当にそれだけ?その曲を聴いて詳しくなることで、今度行くライブでそれが歌われているときにより盛り上がることができるから、というような場合は少なくないのではなかろうか。

 つまり、現場での聴取体験が頂点に置かれ、CDによる音楽の聴取がそれに従属するということは、アイドルの楽曲の場合に、しばしば生じているのではないか*1。しかし、『CD』では「普通」の曲の前後はノイズの侵入を受けており、ライブの予習のために「純粋な」曲を聴くことは望めそうにない。『CD』の楽曲は、現場での聴取にCDによる聴取を従属させる意図をノイズで妨害してくるかのようだ。『CD』は、現場での聴取に従属せず、だからといってそれに優越するわけでもない別の聴取体験をもたらす。CDの楽曲を、現場での聴取を想定することなくそれそのものとして聴くこと。CDに与えられた『CD』という名前は、こうしたことを訴えているようにも思える。

*1:例えば演奏をする能力が高くないバンドであれば、ライブよりもCDでの聴取が優位になるということはありうる。しかし、アイドルでは現場の重要性が極めて高いので、CDでの聴取よりも現場での聴取により高い価値が与えられることが少なくない。現に、現場での聴取を行わない「在宅」オタクの地位を、高いと言うことはできないだろう。

須藤凜々花の結婚宣言からアイドルの恋愛禁止とガチ恋を考える

 少し前に、NMB48須藤凜々花さんによるAKB48選抜総選挙のスピーチにおいて、「結婚宣言」がなされたことがかなり話題となりました。これに対しては様々な意見が出ていましたが、普段はアイドルに興味もないが何か話題になっているということで批判めいたことを言っていた、ことあるごとに話題のテーマをダシにして自分の陳腐な意見を開陳する一群の人々は、すでに他の話題に関心が移って、この結婚宣言のことには興味を失い始めているころでしょう。ここらで少し自分の意見を残しておきます。

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