アイドル批評空間

アイドルについて少し掘り下げて考えるブログ

・・・・・・・・・1st single『CD』について

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツ)の初のシングルである『CD』が、昨日リリースされました。実はこの記事を書いている時点でまだ『CD』は聴けていないのですが、ツイッターのTL上に流れてきた感想を踏まえた上で、現時点での感想を残しておきます。 

 まず『CD』の収録曲は一曲であり、その長さは72分。より詳しく言えば、72分の中に「普通の」曲が三曲入っていて、その間がノイズでつながれている(らしい)。ほとんどノイズじゃないか!でもこれはとても面白いと思う。個人的に面白く思ったことが二つあったので一つずつ書いておく。

 これだけ長い間ノイズが流れているから、真面目にぜんぶ聴いていたらどうにかなりそうだ。実際、こんなツイートを見かけた(以下、表現には元のツイートとの異同がある)。「後半はノイズばかりで最後まで聴いていたら、聴き終わってからも周りの物音=ノイズが曲に聞こえるようになった」。すごい!これでこそ身に纏えるアイドルじゃないか!

 多分よくわからないと思うので、少し説明する。周知のようにドッツのメンバー名前はそれぞれ・である。しかしここで、まず女の子たちがいて、次にその彼女たちに・という名前が与えられた、というような考え方をしてしまうと、ドッツを理解するのは難しくなる。まず・ちゃんがいる。次にその・ちゃんが時には女の子として、またある時にはCDとして、曲として、音声として、匂いとして、心臓の鼓動として…というように多様な形で現れてくる。こう考えた方がいい。

 これを踏まえて改めて先のツイートを考えてみる。曲という形で現れていた・ちゃんたち。曲が終わる。周りからは色んな物音。いつもは気にもしなかったか、何なら鬱陶しいとすら感じていたかもしれない多様な音たちが、今では曲に聞こえてくる。ここで・ちゃんたちは、私たちの周りの様々な音にまで滲み出ていって、私たちを取り囲む。『CD』の収録曲のタイトルは「Tokyo」だが、まさにこの曲は私たちの周囲を取り巻く都市そのものになるのだとも言える。

 こうして考えてくると、ドッツとノイズとの関係についてまだまだ考えることはありそうだ。しかしここでは、二つ目に移る。

 私たちがアイドルの楽曲を聴いているとき、それは何のために聴いているのだろうか。好きなグループの曲だから、曲がいいから、盛り上がるから。本当にそれだけ?その曲を聴いて詳しくなることで、今度行くライブでそれが歌われているときにより盛り上がることができるから、というような場合は少なくないのではなかろうか。

 つまり、現場での聴取体験が頂点に置かれ、CDによる音楽の聴取がそれに従属するということは、アイドルの楽曲の場合に、しばしば生じているのではないか*1。しかし、『CD』では「普通」の曲の前後はノイズの侵入を受けており、ライブの予習のために「純粋な」曲を聴くことは望めそうにない。『CD』の楽曲は、現場での聴取にCDによる聴取を従属させる意図をノイズで妨害してくるかのようだ。『CD』は、現場での聴取に従属せず、だからといってそれに優越するわけでもない別の聴取体験をもたらす。CDの楽曲を、現場での聴取を想定することなくそれそのものとして聴くこと。CDに与えられた『CD』という名前は、こうしたことを訴えているようにも思える。

*1:例えば演奏をする能力が高くないバンドであれば、ライブよりもCDでの聴取が優位になるということはありうる。しかし、アイドルでは現場の重要性が極めて高いので、CDでの聴取よりも現場での聴取により高い価値が与えられることが少なくない。現に、現場での聴取を行わない「在宅」オタクの地位を、高いと言うことはできないだろう。

須藤凜々花の結婚宣言からアイドルの恋愛禁止とガチ恋を考える

 少し前に、NMB48須藤凜々花さんによるAKB48選抜総選挙のスピーチにおいて、「結婚宣言」がなされたことがかなり話題となりました。これに対しては様々な意見が出ていましたが、普段はアイドルに興味もないが何か話題になっているということで批判めいたことを言っていた、ことあるごとに話題のテーマをダシにして自分の陳腐な意見を開陳する一群の人々は、すでに他の話題に関心が移って、この結婚宣言のことには興味を失い始めているころでしょう。ここらで少し自分の意見を残しておきます。

 とはいえ、今触れたような非難を、その動機が不純であるという理由だけで斥けてしまうのはさすがにまずいでしょう。まずは、こうした非難から検討することにします。その非難とはつまり、今回の宣言は「詐欺」であるとか、ファンに対する「裏切り」であるとかいったものです。しかし、このことは世間で思われているほど自明なのでしょうか。そもそも、こうした批判が自明であるように思われるためには、どんなことが前提されているのでしょうか。

 当然のことですが、たいていの人は周囲の人に結婚することを宣言しても、裏切りであるなどと非難されることは、まずないと言っていいように思えます。では、なぜ須藤さんは非難されたのか。それは、恋愛禁止というルールがあったからです。しかし、アイドルにおいて定められた独自のルールが破られただけというだけで、裏切りなどという強い非難が浴びせられることがあるでしょうか。例えば、Perfumeには髪を染めないというルールがありますが、もしある日、例えばのっちだけがこのルールを破ったからといって、のっちを裏切り者呼ばわりすることがあるでしょうか。ありえません。

 とはいえ、Perfumeのルール(正確には「Perfumeの掟」ですが)とは違って、恋愛禁止は総選挙の為にCDを買わせるというようにかなり直接的にお金が関わってきているのだから、同列に論じてよい話ではないという反論があるかもしれません(そういえばマツコ・デラックスがキャバ嬢を例にして批判していました)。しかし、ここにも暗黙の前提があって、それは恋愛禁止のルールが守られている=アイドルに彼氏がいないことが、CDを買う=総選挙に投票する意欲を高めるというものです。これは逆に言えば、恋愛禁止のルールが守られていない=アイドルに彼氏がいるということは、CDを買う=総選挙に投票する意欲を失わせているということです。このことは結局、ここで取り上げているような批判において想定されているアイドルオタクは、やっぱりどこかでアイドルに彼氏がいなくて、自分とアイドルが結ばれる可能性をどうしても担保しておきたがっている、ということを意味しています*1

 しかし奇妙です。アイドルに興味がないのにアイドルオタクの側に立ったような非難を浴びせていた人々は、恋愛禁止というルールを破ったことを問題視していたにもかかわらず、その非難において前提にされているオタクは、アイドルと結ばれたいと願っているオタク、つまり、恋愛禁止というルールを破ろうとしているオタクなのです。恋愛禁止というルールを破ろうとするオタクだけに勝手に感情移入して、アイドルが恋愛禁止というルールを破ったことに対して非難を浴びせる。このような議論にはやはり取り合う必要がありません。

 とはいえ繰り返しますが、自分とアイドルとが結ばれることを願うオタク、いわゆるガチ恋オタクは、実際に一定数存在します。ここまでのアイドルオタクではない人々による非難に対する批判は、こうしたガチ恋の人々にも当てはまってしまう可能性があります。それは非常に酷なことだとは思います。しかしだからといって、現在のアイドルのシステムに対する批判的な視点を失うことは避けなければなりません。以下、恋愛禁止とガチ恋との関係について手短に述べます。

 そもそもなぜわざわざガチ恋という呼び方が存在するのでしょうか。そもそも恋というものは、基本的にはガチであるはずのものではなかったのでしょうか。この呼び方には、前提として恋愛禁止があると思います。恋愛禁止というルールがある以上、アイドルに対する恋愛感情はガチになってはならない。しかしそれでもなお、ガチになる人は一定数存在します。オタクがガチになってはならないルールの下で、それでもなお、恋をしてしまうからこそ、わざわざその恋はガチであると言われる必要が出てくるわけです。だから、恋愛禁止とガチ恋とは一体です。より正確には、恋愛禁止があるからこそ、ガチ恋などという概念が成り立ちうるのです。

 こうした恋愛禁止というルールから成るシステムは、どのような機能を果たしているでしょうか。まず恋愛禁止によって、アイドルに彼氏がいないことが、基本的には保証されることになって、オタクはガチ恋へと駆り立てられやすくなります。しかし、先ほども指摘したように、ガチ恋オタクは、そもそもガチ恋という立場が恋愛禁止を前提にしているにもかかわらず、それでもなおその禁止を破ろうとします。なぜでしょうか。恐らくこれは不可能が禁止に置き換えられることによって生じています。そもそもアイドルになるのは、いわゆる恋愛偏差値が高く、アイドルでなければ恋人にはあまり苦労しないような人たちです。そうした人たちと、不特定多数のオタクの中の一人に過ぎないガチ恋オタクが結ばれることは、はっきり言って不可能です。しかし、恋愛禁止というルールがあれば、その不可能性が禁止に置き換えられます。不可能なものはもうどうしようもないと諦めざるをえないですが、禁止されたものであればそれを破るという可能性があります。そしてその可能性を追い求めることに熱中すればするほど、本来存在していたはずの不可能性からは目が逸らされていくことになる、というわけです。

 では、恋愛禁止を解除すればどうなるでしょうか。禁止がなくなるのだから、オタクの恋をわざわざガチだと言う必要はなくなります。と同時に、禁止によって目を逸らすことができていた不可能性に直面することにもなります。禁止に基づくガチ恋から不可能な恋へ。この恋にそれでもなおこだわるなら、そこには様々な苦しみが伴うことになるでしょう。しかし、どんな恋にも苦しみはつきものでしょう。また、その恋が不可能であると言っても、そうした不可能な恋はいくらでもあるでしょう。ここにおいてもはや、アイドルに対する恋は、「普通の」恋と本質的な違いのないものでしかありません。 

 以上のような、恋愛禁止というルールを禁止するという私の提案は、現状において容易に受け入れられうるものではありません。ただ、今回の須藤さんによる結婚宣言は、本人の真意はどうであれ、現在のアイドルのシステムに対する根本的な批判として解釈することが可能です。今回の一連の騒動をただのつまらないゴシップネタに終わらせないために、多少強引であることは覚悟のうえで、以上のような解釈を行った次第です。

*1:実際こういうオタクもかなりいるでしょう。とはいえ、そうではないオタクも存在するのであり、そうした人々にとっては、ルールを破ったことそのものに対する怒りはあっても、それ以上の怒りは起きないはずです。

「Especiaは概念である」という命題について

 周知のように、「Especiaとは概念である」という命題が存在する。Especiaが解散した今、この命題はさらにその重みを増してきていると言うことができよう。しかしながら、この命題には変更が加えられなければならない。というのも、概念とはただ存在すると言明することによって容易に存在しうるものではないからだ。

 では、概念とは何か。哲学者ジル・ドゥルーズによれば、概念とは創造されるものに他ならない。カオスに潜り込み、その無限速度を損なわないままそれに一貫性を与えること。このようにして概念は創造されなければならない。とはいえ、ここで哲学談義を繰り広げるつもりはない。誤用や歪曲を恐れずに自由に進めていこう。

 ところでEspeciaはまさにカオスそのものではなかっただろうか。現場の雑然とした雰囲気、楽曲とメンバーの親しみやすさとの乖離(いい意味での)、運営の人を食ったような態度、どれもやわな言葉でわかったようなことを言ってしまうのを拒むようなところがあった。だからEspeciaは解散してしまったがたぶん私たちはEspeciaが何だったのかを完全には理解していない。それどころか、今後も全てが理解されることはありえないだろう。こうして、私たちの概念創造は続く。

 しかし、概念の創造に際して無限速度が損なわれてはならない。これはEspeciaをお仕着せの言葉で安易に表現することを避けなければならない、ということであると理解しておこう。もちろん結果的に他人と同じ考えに至ることもあるだろう。それは構わない。重要なのは、安易な手段に頼らずにEspeciaと向き合うということだろう。

 Especiaが概念なのであれば、そして概念は創造されるべきものであるならば、以上のことからすでに明白であるのだが、ペシスト・ペシスタたちの活動はこれからも続いていかなければならない。というのも、これはとても重要なことなのだが、概念は一度創造されたらそれを後生大事に守り続けるようなものであってはならないからだ。それは、絶えず創造され続けなければならない。そのきっかけは恐らく日常の至る所にある。何もヤシの木だけがきっかけではないはずだ。それは、EspeciaのCDを聴いたとき、元メンバーたちのツイートを読んだとき、あるいは些細なことで気落ちして何か慰めが欲しくなったときであるかもしれない。

    さて、Especiaという概念を創造し続けろと何か偉そうに語ってきたこの文章であるが、出鱈目に濫用しているとはいえ哲学者の名前を持ち出してきている以上は、自分の言葉でEspeciaについて語ってきたとは到底言えまい。少なくとも私による概念創造は始まったばかりだ。しかし繰り返すが、この創造にむけた道のりはどこまでも続いていくだろう。そしてまた、このことは、Especiaというグループが持つ力を証示し続けることにもなるはずだ。

    以上から、次のように結論づけねばならない。もしあなたが「Especiaは概念である」という命題を受け入れるならば、Especiaとの付き合いはこれからも続く、いやそれどころかそれは、まだまだ始まったばかりである、と。

    

今こそ『前田敦子はキリストを超えた』を読み直す

 先日、批評家で、アイドルグループPIPの元総合プロデューサーの濱野智史が、ニコ生で「濱野智史の告解と懺悔」と題された放送を行った。これはPIPの解散を発表するものであると共に、その試みが失敗であったことを、プロデューサー自身が認めるというものでもあった。また濱野は、今後アイドルには関わらないということも明言していた。

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SMAP解散の必然性~太田省一『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』書評~

はじめに

 先日、松谷創一郎SMAPはなぜ解散したのか』を読んだ。この本を通じて、事実関係の整理をすることができたのだが、同時にその結論に対して少し物足りなさも感じた。その結論とは、人情のぶつかり合い、というものだった。つまり、SMAPのマネージャーに対する人情を選ぶのか、ジャニーズ事務所に対する人情を選ぶのかという人情のぶつかり合いこそが今回の解散の真相である、と。確かにそうなのかもしれない。しかしこれはやはり事実を確認しているだけのような気がした。いやそれだけでも十分有益な本であることは間違いないのであろうが、今回の解散に関してもう少し深く考えてみることはできないものか。

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ESPECIAが解散を発表しました

第2章に入ってから1年と経たないうちにESPECIAの解散が発表されました。

まず始めに明かしておかなければならないのは、第2章になってから自分が1度もESPECIAの現場に行っていないということ。以下思い付くまま書きますが、あくまでライブに行かなかった奴の言い訳でしかないという部分が少なくありません。

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改めてアイドル批評の必要性について~『ゲンロン4』を手掛かりに~

 このブログを始めてからもう少しで一年が経とうとしていますが、最初のブログのタイトルは「アイドル批評とは何か」でした。新年だから、というわけではないのですが、このあたりで改めてなぜアイドル批評が必要だと考えるのかを書いておきます。ここでは、先日読んだ『ゲンロン4』における議論を手掛かりにして考えていきます。

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矢野利裕『ジャニーズと日本』についてのメモ、あるいはSMAPの特異性

 はじめに

 SMAPの解散発表があったからか、今月はSMAP関連の新書がいくつか出た。ここでは、その中で最も面白かった矢野利裕『ジャニーズと日本』を取り上げ、特に気になった部分について、いくらかコメントを加えていこうと思う。

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清竜人25の解散について

 清竜人25が昨日(11月20日)のライブ中に解散を発表しました。今、解散を発表した時に歌っていた新曲を聴きながら、キーボードを叩いています。とてもいい曲です。個人的な感情が色々と湧き出てきています。しかし今はそれは措いておきましょう。解散の発表にあたって、清竜人25というものを今ここで改めて整理して考えておきます。そして離婚ではなく解散と言われた理由も。

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アイドル言説における否定 ~アイドル批評とドゥルーズ哲学との出会いのための試論~

 『アイドル論の教科書』*1という本を読んだので、書評を書こうと考えていたのですが、他に書きたいことが出てきてしまいました。そこで、この本の一部を取り上げた上で、そこから想像力を逞しくして自分なりの議論を展開するという形で進めようと思います。

*1:塚田修一・松田聡平『アイドル論の教科書』青弓社、2016年

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9つの点は何を意味するのか ~レディメイドとしての「・・・・・・・・・」~

 先月取り上げたアイドル「・・・・・・・・・」について、ここではそのグループ名から考えていきたいと思います。以前の記事はこちら。

scarlet222.hatenablog.com

 さて、先月デビューした「・・・・・・・・・」ですが、この9つの点を何と読むかは決められていません。まだ決まっていないとかいうのでもなく、何と呼ぼうと自由なのだそうです。今回の記事では、この9つの点の一つの読み方を提示し、そこから議論を展開することにします。

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なぜ二人は出会わなければならなかったのか~新海誠『君の名は。』感想~

 『秒速5センチメートル』では、二人の男女が最終的に出会うことはなかった。しかし、『君の名は。』では違う。二人は出会う。いや、出会わなければならなかったのだ。以下ではその理由を記す。当然ネタバレも含まれるのでご注意願いたい。

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次世代アイドル「・・・・・・・・・」についてのメモ

    先日、OTOTOYのとある記事を発見し、次のようにつぶやきました。

    このインタヴューは、インタヴューが行われた時はまだデビューする前だった「・・・・・・・・・」(何と読むかは決まっていないらしい)というアイドルについてのものです。

    以下、私が気になった箇所をいくつか引用してみます。

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須藤凜々花『人生を危険にさらせ!』を真剣に哲学書として読んでみた

はじめに

 『人生を危険にさらせ!』という本は以前から気になっていました。須藤さん本人が哲学書だと宣言している以上、いったいどれくらいの水準に達している本なのか確かめてみたかったからです。加えて、Amazonレビューやブログの書評などでは軒並み高評価。これは文学部哲学科に在籍する哲学徒の端くれとして厳しい目で読んでコメントしなければ!と、よくわからない使命感を日々高めてきました。ようやく昨日Amazonで注文して読んでみたので、いよいよ機は熟したわけです。

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℃-uteの解散と遺産

 アイドルと初めて握手したのは、意外にも℃-uteだった。友達に言われるがままにライブに行き、会場についてからライブの後に握手することを知った。℃-uteについてまだほとんどなにも知らず、矢島舞美さんしか認識できていなかった当時の私は、なぜだかよくわからないがひたすら申し訳なさそうに頭を下げながら、するすると握手の列が流れていくに身を任せることしかできなかった。

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