アイドル批評空間

アイドルとかについて書くときがあります

Tokyo in Picture、時代に逆行するアートとしての

絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ。

(「Tokyo in Picture」フライヤー)

 

君に出会ったーー取り返しようのないくらい。

幻でもなく、間違いでもなく、たしかに。

………

求めてるのはハートだけ。

差し出せるのはアートだけーーそうでしょう?

(For Tracy Hyde「Theme for "he(r)art"」)

 

 緊張と興奮が入り混じるなかほとんどうわの空で入口での説明を聞き流しつつリーフレットを受け取って右側に向きを変えて数歩進んだそのとき。「あれ」はたしかにそこにあった。「fixed variables」と名付けられたその絵画の中には5人の女の子がいて、入場してきたひとたちの視線をことごとく釘づけにしていた(終演後には6人に増えていた)。

 誰もが、その女の子たちを見るのは(基本的に)初めてだった。にもかかわらずその女の子たちは、もっと前から知っていて、なおかつ特別な思いを寄せている「彼女」たちのことをおのずと想起させた。というのも、そこにいた女の子はそれぞれ、目元以外の部分を除けば「彼女」たち、つまり私たちがいつも「・ちゃん」と呼んでいる女の子たちに、そっくりであるようにおもわれたからだ。そのとき私たちは、「君に出会った」。それは初めてのような、何十回、何百回目のような、そのどちらでもあるようなないような、そんなよくわからない出会いだったが、それでもやっぱり「たしか」でなおかつ圧倒的なものだった。

 こうして入場後早々に強い印象を植え付けられながらもとりあえずメインステージのある5階に降りると、ステージ上にはすでに・ちゃんたちがソファーに座っていた。時折移動するものの、基本的には作品としてじっとそこにたたずんでいる。このワンマンの日についてだけいえば、「彼女」たちはまさに「絵画のように生まれ」たのだ。当然ライブパフォーマンスが始まれば、動き出し、「映画みたいに生き」るだろう。そして入口で「彼女」(=目元以外は・ちゃんによく似た女の子)たちの絵画を見た以上、「彼女」(=・ちゃん)たちが映画のように動き出して生きている姿は、「彼女」(=目元以外は・ちゃんによく似た女の子)たちの「生き写し」と感じられるだろう。ここでは絵画がオリジナルのコピーであるという通常考えられる関係は逆転し、揺らいでいる。

 話をワンマンの当日に戻そう。一通り・ちゃんたちを眺めた後、少し落ち着くためにアルコールを流し込みながら入口でもらったリーフレットを開いてみると、さっきみた「fixed variables」はじめとする絵画に加え、これまで発売されてきたシングル(CDあるいは虫かご)や・ちゃんたちの作品、あるいは衣装などに番号が付されていることに気が付く。ここまでが作品番号1から24なのだが、25番以降はセットリストになっており、それらのタイトルは普段通りの曲名であったり別のものであったりした。そして最後の45番のタイトルは「cheki」。最後に写真(picture)を撮って、「Tokyo in Pictutre」が締めくくられるというわけだ。しかもこのワンマンは「時代に逆行するライブ」と銘打たれていたが、作品番号25から43にわたるライブパートが進むにつれ、各作品に付された年号が下っていくようになっている(ちなみのこの年号は、普段とは別のタイトルをつける際の元ネタになっている芸術作品がつくられた年号に対応している)。よくできてるな…。

 でもこうしたワンマンの構成が素晴らしいのは何もこれだけではない。「Tokyo in Picture」という展覧会の作品として、絵画やCD、女の子たちパフォーマンス等々を等値することによって、都市のエネルギーが女の子やモノのように様々な仕方で観測される/されうるというドッツのコンセプトが、このワンマンの構成によって体現されているのだ。このようにコンセプトを形あるものとして具現化しているという意味においても、「Tokyo in Picture」はまさに芸術作品であったのだといえる。

 また、「fixed variables」という絵画についても語るべきことが多くある。そこに描きこまれた建物の入り口にある、マンションの名前が書いてあるみたいみたいなプレート。そこには「Et In Tokyo Ego」と記されてあった。直訳すると、「私は東京にもいる」。この言葉は絵画のタイトル「fixed variables」と響きあっている。ドッツ運営は、・ちゃんは一人当たり東京の女の子10万人に相当すると説明している。そうした多くの女の子たちの個性が各・ちゃんに重ね合わされた結果、・ちゃんの目元はなんだか黒っぽくなっているのだ。で、この重ね合わせの状態の時が「変数(variable)」と表現されるとするならば、絵画の中のように特定の一人の女の子に収束している場合は「固定された変数(fixed variable)」となる。こうして観測される女の子が複数描きこまれているので、その絵画はまさに「fixed variables」と呼ばれるにふさわしい。またそれゆえに諸変数は別様に固定=観測されうる。「私は東京にもいる」。

 さらに「Et In Tokyo Ego」という言葉には元ネタがある。それはプッサンという画家の作品、「アルカディアの牧人たち」の中に描きこまれた、「Et In Arcadia Ego」という言葉だ*1。このアルカディアという地名と私(Ego)という言葉が何を意味するのかはウィキペディアに書いてあるので割愛。ここで注目したいのは、「fixed variables」という作品がただこの言葉を参照しているだけでなく、その絵画における構図をも参照しているということだ。女の子たちのポーズやその配置の仕方あるいは周囲に配置された静物や背後の建物とそこに差し込む光と影、こうした様々な要素を駆使して、画布の中に正五角形や三角形といった形を見出すことが可能になっている。こうしたプッサンの絵画にみられるような壮大な画面構成は、油画が日本に受容された後も定着しなかったそうだ。ゆえに「fixed variables」は、こうした西洋の油絵の王道へ立ち返っている、つまり「時代に逆行」しているのだといえる。

 とはいえただ先祖返りしているというのではもちろんない。日本の画家によって、しかもアイドルという非常に日本的な現代の偶像が、こうした西洋の王道的な形式で描かれているがゆえに、この作品は確実に新しい表現たりえている。王道を徹底することによる新しさ。正統派なのにへんてこ。ここにドッツとの相似を見出すことはそう難しくないだろう*2。「fixed variables」という絵画も、ドッツというアイドルグループも、ともに時代に逆行するアートに他ならない。私たちがあのとき差し出されていたのは、こうしたアートだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ワンマン会場にあった作品解説では、参照されるべきもう一つの作品として、ベラスケスの「侍女たち」が挙げられていた。エレベーターの中からこちらをみている女の子が、「侍女たち」における鏡に映る国王夫妻、あるいは階段からこちらを見ている男性に対応するという点で、構図上の類似を見出すことができる。

*2:かつてBiSとデュシャンの「泉」が似ていて、それゆえにBiS以後のアイドルは現代アートに対応しているなどと考えてみたことがあったが、このことと併せて考えてみれば、ここで指摘した相似についてさらに踏みこんだ考察が可能になるかもしれない。

ドッツ5thワンマン「Tokyo in Picture」について

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の5thワンマンが、2月19日に行われます。以下では、「Tokyo in Picture」というタイトルに込められた意味、そしてこのワンマンが「時代に逆行する」ライブであると予告されていることの意味、これらのことを考えてみます。

 ここで手掛かりにしていきたいのは、ワンマンのフライヤーに書かれてある言葉です。そこには次のように書かれてあります。「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」。謎めいた文章です。この文章の自分なりの解釈が出せるというところまで行ってみたいとおもいます。

 まず、ワンマンと関連しているはずのものとして、二つのものを取り上げていきます。一つ目は、2月6日に公開された、「きみにおちるよる」という曲のMVです。

www.youtube.com

このMV、まず目につくのは3:4の画面アスペクト比です。これは当然映画(picture)のアスペクト比を意識したものでしょう。このMVで面白いのは、疾走感のある楽曲であるにもかかわらず、メンバーの・ちゃんたちは基本的に動きがほとんどない、ということです。このことは、普段のライブで疾走感のある振付を見慣れている人には、新鮮な印象を与えたのではないでしょうか。 

 では、このMVにおいて、疾走しているものはなにもないのでしょうか。もちろんそんなことはなく、・ちゃんの周囲では都市の景色が高速で流れています。つまり、このMVでは・ちゃんたちの代わりに、都市が楽曲に合わせて疾走しているのです。それだけではありません。1分40秒以降の10秒くらいを見てもらいたいのですが、ここでは躍動感あふれる・ちゃんの振り付けと疾走する都市とが、重なり合うことなく交互に映し出されています。都市も・ちゃんも共に曲に合わせて動くということを表現しながらも、まだはっきりとこの2つは区別されているわけです。しかし、3分20秒あたりになると、もはや・ちゃんと都市との区別が曖昧になっています。両者が実は表裏一体の関係にあるということが示唆されているわけです。

 以上のようなMVについての短い考察から何が導きだされるでしょうか。①このMVはそもそも「Tokyo in Picture」であるということ(画面アスペクト比からわかる)。②このMVはライブのパフォーマンスと対照的に、・ちゃんたちはほとんど動かず、それゆえに新鮮な印象を与えてくれること。③このMVそのものが都市と・ちゃんとが表裏一体であることを表現しているということ。

 以上3つのうち、③についてはドッツのコンセプトをよく表しているといえます。つまり都市としてのアイドル、ということです。コンセプト担当の説明では、この都市=アイドルは、情報や人やモノを生み出すエネルギー=流れであると規定されています。女の子としての・ちゃんは、こうしたエネルギーが私たちに観測されている一つの形態に他なりません。当然、他の観測のされ方もあります。picture(絵画、写真、映画)、つまりは画像や動画も、こうした都市=アイドルが観測されている一つの形態であり、それゆえに、女の子としての・ちゃんと画像や動画の中の・ちゃん(Tokyo in Picture)は、等価であるといえるのです。

 この女の子と画像・動画の等価性は、②に少し関係しているでしょう。つまり、MVは現場でのパフォーマンスの予習のためのもの、現場でのオリジナルな体験に対するコピーではなく、現場でのパフォーマンスと等価なもの、それとは別の体験をもたらすものとして、捉えられているはずなのです。とはいえ、MVがライブパフォーマンスと違うものであるというのは、別にどのアイドルでも同じことです。同じ動画でもライブ動画にかんしては、現場=オリジナル/画像・動画=コピーという関係は崩せないのではないか、そんな疑問が直ちに思い浮かびます。これに応答するためには、もう一つのドッツのコンテンツについて考える必要がありそうです。

 1月30日に「Haptic Video」というものが公開されました。これは、ライブ動画に、パフォーマンス時の・ちゃんの鼓動が連動してスマートフォンが振動する、というものです。ライブ動画というものは、現場でのオリジナルな体験の代替物=コピーである、という捉え方が一般的だとおもいますが、この「Haptic Video」は、動画に現場では決して体験できない・ちゃんの鼓動という新たな要素を付加することで。前述したオリジナル/コピーの関係を揺るがすことを志向しているように見受けられます。つまり現場の女の子としての・ちゃんと画像・動画の中の・ちゃんは等価である、というわけです。

 さて、以上の検討を経ると、冒頭で挙げたフライヤーの文章が、明確な意味を持つものとして立ち現れてきます。もう一回引用しておきましょう。

絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ。

ここには2回「彼女」という言葉が出てきていますが、これは当然別々の「彼女」を指しているはずです。ここを押さえればこの文章は「Tokyo in Picture」の説明文であることが明らかになります。まず一つ目の彼女、これは女の子としての・ちゃんです。で、二つ目が画像や映像の中の・ちゃん(Tokyo in Picture)です。

 このように考えたとき、この文章は普通の人と画像・映像との関係が逆転していることに気づきます。普通は、人がいて、その人による現場でのパフォーマンスがあって(これがオリジナル)、そうした人やパフォーマンスのコピーとしての、「生き写し」としての画像や映像がある、という関係になっています。しかしここでは反対に、女の子としての・ちゃんのほうこそが、画像や映像の中の・ちゃんの「生き写し」であると書いてある、というように解釈できるのです。

 これはどのような意味で「時代に逆行」しているのでしょうか。現在画像や映像は、アイドルの楽しみ方において、現場での体験を補完するものとして、盛んに活用されています。今後もますます活用され、それらが与える体験はますますリアルなものになっていくでしょう。しかしながら、その根底において、画像や映像が最もリアルな現場での体験のコピーでしかないという価値観は、ほとんどと言っていいほど揺らいでいないように見受けられるのです。ドッツの掛け金はおそらくここにある。つまり、「時代に逆行」しこうした価値観を転倒させるというまさに「反時代的」な試みを目論んでいるはずなのです(この価値観こそが、「現場至上主義」という言葉でマークされているものに他ならないのだと私はおもっています)。

 とはいえこのような言葉を重ねているともはや現場での体験が必要ではない、と言いたいかのようにおもわれてしまうかもしれません。そうではないのです。あくまで現場での体験はその他のものと等価だと言っているまでです。それどころか、女の子としての・ちゃんとそれと等価な画像や映像とを貫くエネルギーこそが都市=アイドルであるなら、それを応援する側もそうした女の子のパフォーマンスとそれを映した画像や映像とを往還することによって、ますますそのアイドルを楽しむことができ、こうした往還運動のなかでますます両者は反射し合うかのようにその魅力を高めていくはずです。

 何だか難しげに言ってしまった気がしますが、要するに女の子としての・ちゃんの個性やパフォーマンスがあってこそ、それを映した画像や映像が活きてくるし、反対に画像や映像を見ることによってまたそれが現場での体験にフィールドバックされるという、女の子=オリジナル/画像・映像=コピーという関係には汲み尽くすことのできない素敵な関係を考えることができるのではないか、ということです。

 とかなんとか言っているうちに文章がすこし長くなってきました。本当はまだまだ長く書きたかったのですが、もうワンマンは明後日なのでやめます。万が一この文章を読んで下さったかたでまだ予約をされていない方はぜひ予約を!これだけ伝われば十分です。というわけで最後に予約ページのリンクを貼ってこの文章はおしまいにします。

tokyo-in-picture.peatix.com

記号と空白――ドッツのふたつの定期公演について

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)は基本的に毎月一回定期公演を開催している。12月は「Tokyo in Words and Letters」が開催された。そして2月には「Tokyo in 『         』」が開催される。言葉と文字あるいは手紙(まとめて以下では記号と呼ぶ)、そして空白。両者は表裏一体であって、そのことはこれら二つの定期公演の間=1月に発売されたドッツのファーストアルバム「         」のジャケットにおいて、視覚的に表現されている。そんなことを以下に書き残しておきたい。

 ひとはアイドルについてやたらと何かを語る。書きたくなる。それは音楽のことかもしれないし、メンバーの容姿や性格のことかもしれないし、グループの物語についてかもしれない。もちろん私たちは東京そのものでもあるドッツについて、やはり何かを書くだろう。書こうとするだろう。記号における東京(Tokyo in Words and Letters)。

 ひとはアイドルにかんするあれこれには、記号による表現を使うだけでは尽くせない何か=空白が、あると考えている。ライブの熱量、あの子の尊さ、ライブ後の語らいの高揚感。このことは、言葉を紡ぐためだけの運営=コンセプト担当がいるドッツであっても、当然当てはまることだ。空白における東京(Tokyo in 「         」)。

 こうした二つの側面は、どうしても相容れないもののようにおもえる。でも本当にそうなのか。

 「         」のジャケットを見て頂きたい(見れないよって人はまず買おう!)。9本の線が、縦に走っているのが見て取れる。なぜ9本か。それはグループ名の・の数に合わせているからだろう。ということは、これらの線は・ちゃんだということになる。しかもこの線はただの線ではなく空白だ。空白のなかに・ちゃんがいる。というかそこでは、・ちゃんは空白として現れている。空白における東京。

 しかし、空白はそれだけでは空白として認識されない。それを空白として浮き立たせる何かが必要だ。アルバムのタイトルにおいて、空白をそれとして浮き立たせているのは「」だ。この括弧は、私たちが・ちゃんを観測するというその作用を表しているのだと考えよう。ここで大事なのは、そもそも観測する気にさせる何かが、空白が、あったからこそ観測は行われたのだということ、しかし他方では、観測によってこそその空白は認識されるに至ったのだということ、これらのことである。空白と観測は不可分のものなのだ。

 再びアルバムのジャケットに戻ろう。そこで空白はたちは、東京についての様々な言葉に囲まれることで浮かび上がってきている。このことは次のように解釈できる。①記号による表現では決して尽くせないアルバムの楽曲たち。でもそれはやはり記号によって浮かび上がる(収録されてる曲が9曲だったなら…)。②東京については実に様々なことが語られるし書かれてきた。でもそこには記号で尽くせないようなノイズもまた存在していて、でもやはりそうしたノイズは記号によってこそ浮かび上がる。等々。

 なんだか空白にいろんな意味が読み込めてしまうが、空白である以上それは当然だろう。少なくともここで確認してみたかったのは、空白と観測、特に記号を介した観測、これらが入り組み合っていて互いを切り離すことができないということだった。だから12月の定期公演は2月の定期公演によってより完成されるし、その逆もまた真なのだ。

 また、以上の短い文章からでもさらにいろんな展開が生まれてきそうだ。例えば、ノイズとしての・ちゃん、もっと言えば都市のノイズに対するノイズとしての・ちゃんというインタビューで語られていたテーマにかんして。あるいは、現場の純粋な体験に記号というまがいものがすでに混ざりこんできているということにかんして。このことは、「現前の形而上学」としての現場(=現前する場所!)中心主義にたいするデリダ的応答の仕方を示唆しているだろう。話が散らかってきた。どうやらこの文章によってもまだ見ぬ広大な空白が浮かび上がってきたらしい。

ドッツのコンセプト解説の解説④

以下は、ドッツのコンセプト担当による「都市の幽霊」というブログ記事の要約になっています。

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「この私」に常に取り憑くアイドル――・ちゃん、幽霊、量子力学

 「会いに行けるアイドル」から「常に纏えるアイドル」へ。あるいはさらに、「この私」に常に取り憑くアイドルへ…。・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプトに忠実に、もしかしたらドッツ以上にそのコンセプトに忠実に、その参照点である東浩紀の議論を参照しつつ、「この私」に取り憑いている幽霊としての・ちゃんのありさまを描いてみたい。以下で断片的な形ではあれ試みられるであろうことにかんして、さしあたりこのような表現を与えることができるでしょう。しかしここから一体何が得られるのでしょうか。

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「女の子の東京」をつくろう

世界中の女の子憧れる都市は、決まっている。
パリ、ニューヨーク、ロンドン、東京
私はそれらの都市を、身に纏いたかった。
東京という都市の殻を、自分の身に。
そうするには、自分の身を、削って削って細く、邪魔にならないようにして、そっと都市の殻の中に挿し入れるしかないと思っていた。 その殻を纏えば、自分はこれまでとは違う自分になれる。洗練された人になれると信じていたし、全身で「東京の人」になろうとしていた。
それは、自分のかたちを削っていく作業によく似ていた。
悪目立ちするのは田舎者っぽいから、場に溶け込むように、浮かないように。自分の知らない都会の、見えないルールから外れないように。大声を出さないように、感情をむきだしにしないように。 

こういうのが「東京の女の子」なのだと思うかたちに、自分を近づけていくのは、楽しいとか苦しいとかではなく、そうすべき義務のようだった。「東京の女の子」になるために東京に来たのだから。(『東京を生きる』51-52頁)

 

 憧れの都市、東京。女の子はそこで、東京という都市を、その殻を、身に纏う。そうしてその殻のなかに自分を押し入れ、自分を削り、「東京の女の子」になる。そんなとき、「東京の女の子」たちに誰かが呼びかける。アイドルになろう。「女の子の東京」をつくろう。

 「東京の女の子」たちは、アイドルとして、大声を出し、感情をむきだしにし始める。そして、憧れの女の子=アイドルになっていく。もう女の子は東京に憧れているだけの存在ではない。むしろたくさんの人が女の子に憧れている。

 女の子たちはさらに都市への反撃を開始する。女の子たちはどんどん都市をハックしていく。ひとは、都市のそこらじゅうに女の子の存在感を読み取る。かつては憧れの都市を身に纏っていて自分を押し殺していた女の子たち。彼女たちが、今度は憧れの対象になって、いろんな人たちがその女の子たちを身に纏うことになる。そして憧れの女の子=アイドルは、いつの日か憧れの都市=東京と重なりあう(女の子=東京)。私的な思いやりと公共的な思いやりとが直結するだろう。

 「女の子の東京」をつくろう。誰かがそう言ったとき、「の」の用法は、所有格でも連体修飾格でもなく、主格(=「が」)だった。繰り返す。「女の子の東京=女の子が東京」をつくろう。

 

ドッツのコンセプト解説の解説③

 今回は要約ではなく、ただ感想を書き散らす形でいきたいと思います。今回のコンセプト担当の文章も、例のごとく長かったのですが、その途中でも出てくるように、ひとまず都市というコンセプトを念頭においておけば理解しやすい部分があるのではないかと思います。以下で、少し展開させてみます。

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・ちゃんの課題図書を読む②

『観光客の哲学』の第1部はこちらからどうぞ。

 

第2部 家族の哲学(序論)

第5章 家族

1、なぜ家族について考えるのか

・これまであったアイデンティティ

①個人→資本主義(グローバリズム

②共同体→国家主義ナショナリズム

③階級→共産主義

⇒かつては、共産主義が個人と国家を同時に批判していたが、いまや共産主義は力を失った。だから、新たに個人と国家を同時に批判するための足場(=アイデンティティ)をつくる必要がある。

⇒観光客が拠りどころにすべき、第四のアイデンティティとは、家族である。

・私たちのなかにいまだある「家族的なもの」への執着を利用して、どのようにして新しい連帯をつくれるのかを考えることが、家族の哲学の課題。

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ドッツのコンセプト解説の解説②

 以下で示すのは、ドッツ運営が振付師のかたに送った文章「東京マヌカン 歌詞解釈とカバーコンセプトについて」についてのみの要約になります。今回のコンセプト担当の記事は、おおよそこの文章の内容に尽きます。

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・ちゃんの課題図書を読む①

東浩紀『ゲンロン0――観光客の哲学』

                                       

 

第1部 観光客の哲学

第1章 観光

1、観光客の哲学は他者の哲学である

・リベラル知識人(あるいはその背景にある欧米の思想)は、つまるところ「他者を大事にしろ」と言ってきたが、人々は世界中で「他者とつきあうのは疲れた」と主張し始めた。

・こうした状況の中で、正面から「他者を大事にしろ」と唱えるのではなく、ただ自分の満足を満たすためだけの観光という「裏口」から「他者を大事にしろ」という命題のなかに引きずり込むことが観光客の哲学の目標。

☆みんな自分(たち)のことで精一杯なのに、賢そうな奴らに「他者を大事にしろ」とか言われてもなかなか受け入れられない。だから、自分のことだけ考えてやる行動をしてるうちに他者への思いやりみたいなものが生まれるような仕組みを考える必要があって、それこそが観光なのではないか。

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ドッツのコンセプト解説の解説①

    大きく分けて、二つの話が書かれてあった。まずは「アイドルの枠」問題に絡めながら、アイドルそのものについて(第2節)。そして二つ目に、アイドルと批評の関係について(第3節)。

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Tokyo in Books――・・・・・・・・・の思想的背景について

1、はじめに

 この記事では、2016年9月から活動している日本の女性アイドルグループ「・・・・・・・・・」(以下、ドッツと表記)のコンセプトの思想的背景を明らかにしていく。端的に言えば、ドッツのコンセプトに大きく影響を与えていると考えられる思想家・評論家として、東浩紀宇野常寛濱野智史の名前を挙げることができるだろう。基本的にはこの三者の議論を辿ることが多くなるが、彼らの議論における共通の問題意識をより明らかにするために、まず大澤真幸による戦後日本の時代区分を確認し、その後で東の議論および宇野・濱野によるAKB48にかんする議論を見ていき、ドッツのコンセプトとの関連や差異を浮かび上がらせることにしたい。

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・・・・・・・・・2ndシングル「Tokyo in Cage」について

    現在「アイドルと芸術」展で展示されている・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の2ndシングル「Tokyo in Cage」を鑑賞してきました。主な感想は3つ。1つ目と2つ目は短くて、3つ目は少しだけ長くなります。では1つ目から。

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古村雪「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」を読む

 タイトルが長くてすみません。今回の記事は、・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプト担当である古村雪さんが2014年に書いた「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」(以下、「作者解説」と表記)の一部を読んでいき、そこから読み取れる内容とドッツのコンセプトとの関連について探っていく、というものです。少し長めになります。

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・・・・・・・・・はなぜ王道アイドルなのか

    ・・・・・・・・・(以下、ドッツ)は紛うことなき王道アイドルです。しかしそれは、いかなる意味においてのことでしょうか。

    ドッツはよくへんなことをやります。コンセプト担当はインタヴューでいつも小難しいことを言ってます。しかしその一方で、特に何も考えなくとも、パフォーマンスを楽しむことはできます。ノイズだけでなく親しみやすい楽曲もあります。かくて、ドッツは王道アイドルでもある…。

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