アイドル批評空間

アイドルについて書くときがあります

幽霊に憑かれた古典主義のオタク

画家はいつの時代もエゴイストである。

昔の宗教画だって、結局宗教を大義名分にして、自分の描きたいものを描いていただけだった。

ミケランジェロは光り輝く肉体を、ラファエロは美しく理想の女性像を、そして、レオナルド・ダ・ヴィンチは“人間„という存在を。

古典主義だの、日本の油画の歴史だのと能書きを重ねるぼくも、ただ、彼女たちを描きたかっただけなのかもしれない。

ぼくは西洋古典主義のオタクであり、彼女たちの姿を“絵画„という古典的手法で記録する、古典主義のオタクでもあるのだろう。

 2019年3月24日。東京キネマ倶楽部において、・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の9thワンマン「Tokyo in Natural Machine」が開催された。同じく東京キネマ倶楽部で、2018年の2月19日に開催されたドッツ5thワンマン「Tokyo in Picture」に引き続き、6階で絵画の展示が行われていた。絵の作者の名前は、笹田晋平という。ネットから拾ってきたプロフィールを引用しておくと、「1984大阪府出身。神戸大学発達科学部を卒業し、独学で油彩画を学ぶ。日本の土着性を保持しながら洋画の伝統を汲みつつ、西洋と東洋、近代と現代の区分を超えた自身のスタイルを築き上げてきた」らしい。9thワンマン後にTwitterでの情報発信を解禁し、今やすっかりただのドッツオタクの観を呈している笹田であるが、彼がこのようなかたちでドッツと密接に関わり合うようになったことの必然性について、いくらか書いてみたい。キーワードは、幽霊。

 ところで、冒頭に掲げておいたのは、9thワンマンの絵画展示スペースに絵画と共に展示されていた、恐らくは笹田自身の手によって書かれた文章だ。まずはこの文章の含意を確認するところから始めたい。この文章で表明されていること、それは笹田が「西洋古典主義のオタク」であると同時に「古典主義のオタク」でもあるということに他ならない。「西洋古典主義のオタク」、それは笹田が、絵画における西洋古典主義というスタイルのオタクであることを意味する(後述するが、彼は西洋古典主義の特徴である壮大な構図を自らの作品に取り入れている)。「古典主義のオタク」、それは笹田が、古典主義という手法を用いて、アイドルを、推しを、・ちゃんを描くというオタ芸を行う、アイドルオタクであることを意味する。

 笹田は「Tokyo in Picture」以降、西洋古典主義における壮大な構図を採用するスタイルはそのままに、絵のモチーフとしてアイドルを選択するようになった。こうした事実はまさに、笹田が「西洋古典主義のオタク」でしかなかった状態から、「古典主義の(アイドル)オタク」でもあるという状態へと移行していったことを示している。しかしこの移行はなぜ生じたのか。もちろんドッツ運営が笹田に絵を描くことを依頼し、ドッツに関わるようになったからだろう。とはいえ仕事で関わったからといって、誰もがすぐさまオタクになるわけでもあるまい。ドッツが、・ちゃんが、これほどまでに笹田を惹きつけたのはなぜか。先に結論だけ示しておけば、笹田は「都市の幽霊」と出会う前から、すでにして幽霊に憑かれた作家であったからだ、となる。

 では、笹田が幽霊に憑かれた作家であるとはどういうことなのか。これを説明するには、彼のこれまでの仕事を少し振り返っておく必要がある。幸いなことに、わりと最近のインタヴューがある。面白いのでよかったら読んでみてほしい。
笹田の仕事の主眼は、「日本の油画を再考する」ことにある。日本に油絵が本格的に取り入れられるようになったのは、明治になってからであるが、笹田によればその時期は、「西洋の油画の王道が崩れ始めた時期」だった。それゆえ、「西洋的油彩画を取り入れた日本人画家たちは、その写実性や筆触を忠実に身につけながらも、ダヴィッドによる大画面の歴史画に代表されるような劇的な主題や壮大な画面構成は日本には定着しなかった」。そしてここで言われている、「劇的な主題や壮大な画面構成」を特徴とするのが、先ほどから言及してきた西洋古典主義なのである。

 こうした歴史認識を前提として笹田は、日本においては定着しなかった壮大な画面構成を用いながら、東洋的、日本的な対象を描くといった作品を発表してきた。例えば、2018年の「シャケ涅槃図 No.4」。これは「釈迦涅槃図」のパロディーになっていて、その中心には「釈迦」のかわりに「シャケ」が描き込まれ、その周りを弟子が取り囲んでいる(この鮭は、日本の油絵の出発点ともいえる高橋由一の有名な「鮭」からの引用にもなっている)。

 こうした作品を描くことで、結局のところ笹田は何を目論んでいるのか。これについてもインタヴュー記事で的確な解説がなされているので引用する。すなわち、「笹田さんの挑戦は、もし日本に輸入された洋画が日本画と断絶されずに正常に発展していたら、という仮定の世界における、日本画と洋画の区別のない日本油画のあり方を探るという、野心的な取り組みなのである」。この一文から、笹田が幽霊に憑かれていることがはっきりと見て取れる。西洋の油絵の王道が日本においても継承され定着している、ありえたかもしれない別の世界という幽霊に。

 翻ってドッツはどうか。よく知られているように、そのコンセプトは「都市の幽霊」である。幽霊という語の意味するところは様々であろうが、さしあたり幽霊とは、「他でもありえたかもしれないという可能性への想像力を喚起するもの」として定義できるだろう。例として、女の子としての・ちゃんについて考えてみる。コンセプトに愚直に従うならば、彼女たちは一人につき東京の女の子10万人の個性が重ね書きされた存在であり、それゆえに目元にサングラスのようなものをつけた外見をしている、とされる。それゆえに、女の子のかたちをとった・ちゃんの背後には常に、別の女の子たちという無数の幽霊がただよっている。つまり・ちゃんは、別の女の子の形をとることもありえたのだという別の可能性を想像することを、絶えず私たちに促している*1

 以上のような意味に加えて、ドッツはさらに別の意味でも幽霊であると言える。それはつまり、アイドルというジャンルにおいて、アイドルがみんなのものであるという王道性を、かつてとは別の仕方で取り戻しているというような、これまたありえたはずの別の世界を想像させる、という意味において。だからこそドッツは、「王道なのにへんてこ」なグループと称している。どんなに変なことをやっていても、「女の子が全力でパフォーマンスをすることは尊い」という価値観がその根底にはあるし、そして何よりも様々な先鋭的な取り組みは、アイドルをみんなのところへ返すという、王道性への志向に貫かれている。そして再び笹田の作品について考えてみれば、彼の仕事もやはり、「王道なのにへんてこ」という軸に貫かれていることが分かる。

 笹田晋平の作品は王道だ。なぜなら彼は、西洋の油絵の王道、西洋古典主義における「劇的な主題や壮大な画面構成」を、自身の作品の中に取り入れているからだ。他方で、笹田晋平の作品はへんてこだ。釈迦の代わりにシャケを描くことで、「日本美術史に遺すべき駄洒落」を作品にしてしまうからだ。先ほどのインタヴューから再び言葉を借りれば、「笹田晋平さんの描く絵画は、人の心をざわつかせる圧倒的な違和感に満ちている。日本画的要素と西洋絵画的要素が画面の上で混在しているそのさまは、一見既視感があるように見えて、何か心理的な居心地の悪さを感じさせる」。幽霊に憑かれた彼の作品は、それを見る者に「不気味さ」を引き起こさずにはいられない。

 以上から、笹田が幽霊に憑かれた作家であるということの意味は、おおよそ明らかだろう。そんな彼は、2018年以降、新たな幽霊に憑かれた。ひとが・ちゃんと呼ぶ都市の幽霊に。冒頭の文章で示されていた「西洋古典主義のオタク」から「古典主義のオタク」への移行は、こうした新たな幽霊と出会い/出会い損ねる過程を意味していたのだと言える。

 

 

 

*1:少し補足。今述べたような・ちゃんの性質は、・ちゃんの「代替可能性」として、時には悪い意味で、議論の対象となってきた。つまり、かけがえのないメンバーが代替可能であるとは何事だ、というわけだ。これに対し、代替可能でもあるにもかかわらず、というかそうであるからこそ、・ちゃんたちが特定の一人の女の子の形をとっていることの偶然性が、もっといえばかけがえのなさが際立つ、といった応答はありうるし、なされてもきた。ただ、こうした・ちゃんの特性が、東浩紀によるデリダの議論に由来していることを考えれば、一人の人間が、時には誰とでも代替可能な存在でしかないと同時に、またある時にはやはり代替不可能な存在、固有名を持った存在であるという、こうした両義性を、どちらか一方を切り捨てることなしにあくまで保持し続けること、これこそが「都市の幽霊」とのコンセプト的には最適な付き合い方なのかもしれない。

ドッツ関連の記事、全部自分で振り返っていく③(2018・2019年編)

【2018年1月1日】

 2018年は、元日から早速の更新。東浩紀存在論的、郵便的』の議論を踏まえてドッツのコンセプトを展開させ、「この私」に常に取り憑く幽霊としての・ちゃんのありかたを論じました。内容的には割とヘビーなほうだとおもいます。あと、タイトルにもあるように量子力学への言及も少ししているのですが、自分の勉強不足ゆえに消化不良な感じが否めないので、このあたりいずれまたしっかり掘ってみたいところです。

 ところでこの時期は、たぶん自分が一番遠征を繰り返していた時期でした。2017年末は、定期公演が12月30日にあって、その後の飲み会で盛り上がって予約してたバスを干し、深夜の原宿を徘徊したりしながら朝まで過ごし、始発の新幹線で大阪に帰って年が明けるまで眠り続けました。今思い出してみても、考えられうるかぎりで最高の年の越し方をしたように感じます。2018年の一発目は、13日あたりの新宿LOFTの対バンにいったはず。その後は、福岡そして仙台と、遠征が続いていきました。まぁ、普段から遠征してたわけですが。

 

【2018年1月2日】

 これは、2017年12月定期公演「Tokyo in Words and Letters」シリーズの続き。コンセプト担当のブログを要約してある記事です。しかし、よくもまぁこれだけ律儀に、誰に頼まれたわけでもないのに、要約し続けたもんです。当時の自分としては、コンセプトを巡ってオタクが紛糾しているのを少しでも和らげたいとか、シンプルに・ちゃんたちの歓心を買いたいとか、色々な思惑があったんだとおもいます。ただ正直言えば、そんなことよりもなによりも、これだけ書いたブログはやはり第一には自分のためのものです。だってそうじゃないですか?例えばこれから数年後に、ちょっと精神的に参っていたとして、今振り返っている記事たちを読み返してみたとしたら。かつての自分がひたすらに何かに熱中し、ある種異様な強度でもって文章を書いていたことをそこに見出したとき、これは賭けてもいいんですが、泣かずにはいられないとおもいます。そしてこの体験を今後できるのはたぶん私だけ。いっぱい書いといてよかった。

 

【2018年2月17日】

 5thワンマン「Tokyo in Picture」の2日前に、断片的に与えられていたヒントをもとにして、どんなワンマンになるのかをあれこれ詮索してみたのがこの記事。まぁ当日は、そんな予想をはるかに上回る演出・仕掛けがあり、パフォーマンスも充実で、とても印象に残るワンマンとなるのでした。キネマ倶楽部のドッツはいいぞ。

 

【2018年3月23日】

 で、そんな大満足の5thワンマンから約1ヶ月後、ようやくワンマンのレポート・考察を書いたのがこの記事。初っ端から歌詞とかの引用とかで始まっていて、少し気取りすぎな感じもありますが、なんだかんだ言って自分のお気に入りの記事の一つです。このワンマンは行ってたけど、まだ読んだことないという人には、振り返りついでにぜひ読んでいただきたいとおもいます。

 

【2018年9月10日】

 半年ほど更新が滞ったので、少し気合を入れ直して書いたのがこの記事。まず最初に自分のコンセプトとの向き合い方について少し書いた後、ブリュノ・ラトゥールの議論を参照しながら、ドッツのコンセプトの意味合いについて自分なりに議論を展開させています。タイトルにも表れていますが、このころからもうコンセプトを表立って強調することにためらいが無くなってきました。そうした中で書いた記事だったので、周りの人たちの反応がどうなるのか正直不安なところもあったのですが、わりかし面白がってくれる人が多く、ブログを書くというオタ芸を地道に続けてきた甲斐があったとつくづく感じました。

 

【2019年3月9日】

 最新の記事。3月24日の9thワンマン「Tokyo in Natural Machine」について書くという体裁で、「アイドルは操り人形=機械だ」というような語り方について、久保明教『機械カニバリズム』の議論に依拠しながら、検討を加えていくというもの。もう完全に自分の趣味を全開にしているにもかかわらず、やはりわりと面白がっていただきほんとうにありがたかった。

 

【2018年3月末】

 

 ブログではないのですが、上記ツイートにある同人誌『推すコト。』に、「テン年代、アイドルオタクはストリートに飛び出す」という文章を寄稿しています(3月中に発売予定)。ドッツの話だけをしているわけではないですが、ドッツがあったからこそ書けた文章であることに間違いはなく、しかも最後には「テン年代は・年代」という元気の出る結論で終わっています。ただ4000字ほどなので、かなり圧縮された書き方になっています。この文章をたたき台にして、テン年代のうちに完全版(「テン年代アイドル論」みたいなタイトルのもの)を書きたい、いや、書きます。というわけで、ブログでのオタ芸はまだしばらく続きそうです。

ドッツ関連の記事、全部自分で振り返っていく②(2017年編)

 【2017年2月24日】
 2017年2月4日、大阪大学豊中キャンパスにてついにドッツを初観測。ただし運営の講義がメインだったので、パフォーマンスは2~3曲だった気がします。そしてこの講義を聞いたことで、ドッツのコンセプトに対する警戒感が消え、完全な古村ガチ恋オタクへと進化を遂げます。そこで書いたのがこの記事。一見ドッツとは関係なさそうだが、途中からはドッツの話だけ。いま改めて自分で読んでみても、記事にたいする熱量が、一段上がっているという印象を受けます。

 この初観測以来、やはりもう少しアイドルオタクでいようという気になり、・ちゃんたちの「今日の動画」をちゃんと見るようになっていきました。その結果、初めはほぼコンセプトにしか興味がなかったのにもかかわらず、次第に・ちゃんたちにも興味を持つようになり、非接触派オタクを脱することになります。

 

【2017年8月17日】

 

 これは、ドッツの1stシングル「CD」のレヴュー。個々の楽曲について、音楽的観点から分析するような能力は私にはないので、音源とコンセプトとの関わりを中心に少し書きました。音楽に詳しいわけではなくても、CDについて何か書くことができるというのは、ドッツならではという感じがします。

 そしてこの記事を書いた二日後、2017年8月19日。心斎橋SUNHALLで再びドッツを観測。さらに・ちゃん(そのときのニックネームは「渡部篤郎」ちゃんだった)と初めてチェキを撮り、あまりの多幸感に打ち震え、以後何かに駆られるようにして東京への遠征を繰り返すようになります。

 

【2017年9月3日】

 ドッツ1stワンマン「Tokyo in WWW」の前日、目黒鹿鳴館でのライブを見終えて、その日泊めてもらうことになっていた友人のバイトが終わるの待つマクドナルドの店内で、次の日のワンマンを控えてどうしようもなく高揚する気分を何とかして落ち着かせようとして必死にスマホを操作して書いた記事がこれ。ドッツがへんてこなことばかりしているにもかかわらず、なぜ「王道アイドル=みんなのものとしてのアイドル」であるのかについて書いてあります。

 この日の夜は、マクドナルドでの健闘も空しく、一睡もできずに朝を迎えました。しかしそんな状態でも、ワンマンライブ中は次々と飛び込んでくる様々な情報を少しでも多く捉えようと必死で、眠くなる暇は一つもなかったように記憶しています。そしてライブの最後には、同じ週の金曜日に2ndワンマンが開催されるとの告知が。たまたま別のアイドルのワンマンでその日にまた東京に来ることになっていた私は、少しの間迷ったものの、結局はドッツの2ndワンマンを選択することになりました。いい選択をしたとおもっています。

 

【2017年9月17日】

 ドッツのコンセプト担当の古村さんが2014年に書いた文章を掘り出してきて、その要約とかドッツとの関連とかを書いたのがこの記事。もとの古村さんの文章は例のごとく長いですが、「ゲンロン観光地メルマガ」の第22号に収められており、Kindleストアで270円で買えますのでよかったらぜひ。そして私自身の文章も、この時期になるとそこそこ長くなってきており、いよいよ「ことあるごとにブログを書くというオタ芸をする奴」化が止まらなくなってきています。

 

【2017年10月8日】

 この記事は、ドッツの2ndシングル「Tokyo in Cage」のレヴューということになっていますが、それと同時にドッツのコンセプトの一部の説明にもなっています。この2ndシングルは、虫かごの中で鈴虫が鳴いているというもので、それだけで意表を突くおもしろさはあるわけですが、コンセプトを踏まえると、さらにおもしろい理解が可能になっていたようにおもいます。懲りずにへんなことをやり続けているものの、コンセプトを踏まえてみるとそこにはちゃんと筋が通っている、あるいは筋が通っているようにおもえてくる、これもドッツならではの楽しみではないでしょうか。

 

【2017年10月16日】

 このブログの中で最長の記事。たしか15000字くらいあったとおもいます。もともと、自分がTAをしていた学部生向けの演習授業で発表したときの原稿に少し手を入れたものなのですが、その発表のときの学部生の反応が結構良くて、ドッツというグループのアイドルオタク以外への訴求力に対する確信を、勝手に深めてたりもしました。内容としては、東浩紀宇野常寛濱野智史という日本の批評家たちの諸議論をたどりながら、それらとドッツのコンセプトとの関連を探るというものです。

 実は私はもともと、批評はあまり読んでいませんでした。例えば東さんであれば、『存在論的、郵便的』という最初の本からは、自分の研究をするうえでもかなり影響を受けていたりしたのですが、その後の『動物化するポストモダン』を始めとする批評的な仕事にはあまり興味がなく、ドッツに興味を持つようになってから読みました。これは音楽の趣味にも言えることですが、ドッツを好きになって以来、自分の興味の幅が広がったし、以前より新しいものに出会うことに貪欲になったように感じています。

 

【2017年12月6日~12月21日】

 2017年の12月は、「Tokyo in Words and Letters」と題された定期公演が開催され、そのタイトル通り言葉や文字があふれる月間となりました。「ドッツのコンセプト解説の解説」は、コンセプト担当による文章の要約や感想を書いたもの。「・ちゃんの課題図書を読む」は、・ちゃんたちが感想文を書くための共通課題図書であった東浩紀『観光客の哲学』の要約。「『女の子の東京』をつくろう」は、・ちゃんの個別課題図書のひとつであった雨宮まみ『東京を生きる』を読んで書いたもの。とにかくこの12月は、コンセプトがわりと強調される一か月だったので妙に力が入り、結果としてやたらと更新数が増えることになりました。

 あと「・ちゃんの課題図書を読む」は、定期公演当日に配布された冊子に掲載されることになり、古村さんによるプレゼンでも盛んに引用されました。これは私にとって推しからの熱烈な私信に等しく、一人でめちゃくちゃテンション上がりました。ちなみに、かなりの回数ドッツ現場に通い続けてきたにもかかわらず、緊張するので未だに古村さんと喋ったことがありません(メロンちゃんはいける)。ワンマンで声かけてみようかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

ドッツ関連の記事、全部自分で振り返っていく①(2016年編)

【2016年9月8日】
 ドッツのお披露目から4日後、一番最初にドッツについて書いた記事がこれ。コンセプトがあまりに魅力的だったので、逆に「簡単には騙されないぞ!」と、警戒心を全開にして書いているさまが文章から伝わってきます。でも最後には当分動向を見守りたいとも言っており、結局当分どころか最後まで応援することになるのでした。

 あとこの記事には、ドッツに初めて言及した記念すべきツイートも貼ってあります。これは、お披露目前のドッツ運営によるインタビューを読んだあとのツイートなんですが、このインタビューを読んだときの高揚感は今でも忘れられない。この時点からすでに古村推しでした。今ではすっかり親しくさせてもらってるオタクが、すでにいいねしてくれているところも見所。

 そういや、お披露目は一応YouTubeでリアルタイム観測してました。画像が荒くて誰が誰だか全くわからんし、カバー曲は音が消えるしで、心折れまくりだったという思い出。しばらくは東京に遠征することもなく、謎の在宅オタクとして過ごすことになっていきました。

 

【2016年10月1日】

 最初の記事から1ヶ月も経たないうちにもう二個めの記事。なんだかんだ言ってドッツが気になって仕方なかった様子がうかがえます。記事の内容自体はまだまだ薄いものの、すでに・ちゃんの代替可能性/不可能性の問題に興味を持っていることが読み取れます。

 

 こんな感じで2016年は終了。この年の11月には、当時わりと好きだった清竜人25が解散を発表。さらに年が明けて2017年の1月には、自分を地下アイドルの世界へと導いてくれたEspeciaが解散を発表。正直言って、アイドルはもうこれでたくさんだとおもってました。2月にドッツを大阪で観測するまでは。

 

 

ドッツ9thワンマン「Tokyo in Natural Machine」について

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 さて、「Tokyo in Natural Machine」について、というわけだが、一体何を書けばいいのだろうか。なんたってヒントが少なすぎる。とりあえずほぼ唯一の手掛かりと言えそうなツイートを貼るところから始める。

 

 

「都市とは何か、アイドルとは何か」については別にいい。ドッツはこれまで都市をコンセプトに掲げてきたアイドルであるから。しかし、「人間とは何か」という問いかけは気になる。今までにこんな問いが主題化されたことがあったとは記憶していない。

 ここで改めて、「Tokyo in Natural Machine」というタイトルと今のツイートを踏まえてキーワードを列挙してみる。「自然(Nature)」、「機械(Machine)」、そして「人間とは何か」。こうした「大それたテーマ」というわずかな手掛かりを踏まえて、当日のパフォーマンスとはほぼ無関係になることも恐れず、少しだけ何か書いていきたい。そもそも制限が多い中で、何とか無い知恵を絞ってやってみた結果、たいていスベるけどたまにおもしろいことが起こる、というのが「オタ芸」というものだろう。というわけで以下では、気がはやってもうワンマンが自分の中で始まってしまっているオタクのオタ芸が繰り広げられていくことになる。

 とはいえ。「人間とは何か」というテーマをアイドルと絡めつつ論じていく、などということは私の手に余りまくりであるがゆえに、何かしら手掛かりとなるものが必要不可欠だ。今回は、久保明教『機械カニバリズム――人間なきあとの人類学へ』という本の議論に頼りながら話を進める。

 「機械カニバリズム」とは何か。機械のほうはいいとして、まずカニバリズムとは、辞書的には「人肉食」を意味する。ただ久保が「機械カニバリズム」を論じるとき、そこで踏まえられているのは、ブラジルの人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによる、カニバリズム論である。そのカストロの議論を踏まえて久保は、「機械という他者の視点から自己を捉え自己を変化させていく営為」を、「機械カニバリズム」と呼んでいる。そして久保は、この「機械カニバリズム」のうちに、「機械-人間のイマージュ」と「生きている機械のイマージュ」という両極を見出す。前者は、デカルトの「動物=機械説」に端を発する、機械と人間との関係にかんする近代的な考え方であり、逆に後者は、そうした近代的な見方が通用しない事例が数多く見受けられるようになった現代において探究されるべき「人間なきあとの人類学」がもたらす、機械と人間との関係にかんする考え方である。

 まずは「機械-人間のイマージュ」について、その概要を確認しておく。先ほど述べておいたように、この第一の「機械カニバリズム」の発端は、17世紀の哲学者ルネ・デカルトの議論にある。久保はジョルジュ・カンギレムの議論を参照しながら、デカルトの「動物=機械説は、機械の二重性を自然の事物に重ねあわせることで構成される」と述べる。どういうことか。まず「機械の二重性」とは、機械が人間の関与なしに自律的に動いているように見える一方で、機械の背後にはやはり、その動力や目的などを機械に与える人間が存在しているという事態を指す。これが自然界に重ね合わせられる。するとそこでは、機械の二重性における人間に相当するのは神であり、こうした神が導入されることによって、動物や人間の身体といった自然物は、自然法則に従うだけの機械として把握されるようになる。さらに今度は、こうした機械としての自然物と比較されることによって、人間の精神は「自然界から抜け出し、「自然の主人にして所有者」としての地位を獲得する」。こうして人間は、身体と精神とに分割されることになる(デカルトによる有名な「心身二元論」)。

 以上のような「機械-人間のイマージュ」を踏まえて、久保は近年の人工知能にかんする言説の分析などを行っていて非常に面白いのだが、本題から外れてしまうので気になる人はぜひ実際に『機械カニバリズム』を読んでほしい。ともあれここからは、もう一つの「生きている機械のイマージュ」の話へと移る前に、いったんアイドルと「機械カニバリズム」論との接点を見出す作業を挟んでおきたい。キーワードは、「操り人形」と「心身二元論」だ。

 「アイドルは大人たちの操り人形(すなわち機械)に過ぎない」といった話法は、かなり使い古されたものだろう。未だにアイドルに対するステレオタイプ的な批判において用いられることがあるが、まさかアイドルオタクでありながらこうした言葉に心から同意する人は少ないだろう(操り人形性を楽しむみたいな態度はありうるにせよ)。とはいえ、議論の対象をアイドルとオタクだけでなく運営にまで広げてみたとき、「アイドルは大人たちの操り人形に過ぎない」と多くのアイドルオタクが考えずに済んでいるのかどうか、途端に怪しくなってくる。

 アイドルオタクの中には、アイドル運営の批判をする人がいる。こうした態度についてどう考えるべきか。そもそもたかだか一人のオタクに過ぎないにも関わらず、運営批判をするとはおこがましい、だいたい趣味なんだから肩肘張らずに楽しんで、気に入らなければ黙って去ればいいだろう、といった見方が割と多いことは承知している。しかしここではもう少し別の観点から考えてみたい。

 これはついさっき思いついたのだが、運営をやたらと批判している人たちって、暗黙の裡にデカルト心身二元論的なものをアイドルと運営との間に投影しているのではなかろうか。すなわち、一方にはアイドルに優越し実際に物事を考えている精神としての運営がいて、他方にはそうした精神に制御されるがままの身体=機械=操り人形としてのアイドルがいる、というように。だからそのときオタクは、「アイドルは大人たちの操り人形に過ぎない」という命題を受け入れてしまっている。

 いや、話を一般化しすぎたかもしれない。そもそも今こんな話をしているのは、やはりドッツのことが念頭にあったからなのだ。ドッツの運営はこれまで割と多めに批判されてきた。そしてその批判にはたいてい、運営の精神を体現するものとしてのコンセプトがかかわっていた。そしてそこにはいつも、メンバーである・ちゃんたちがないがしろにされているのではないかという不安が含まれていたようにおもえる。

 例えば一昨年の12月、「Tokyo in Words and Letters」と題された定期公演が開催され、その月にはドッツのコンセプト担当による文章がいくつか公開された。そのとき一部では、そうした文章が長すぎるだとかわかりにくいだとかいった批判が運営に対してなされていた。たかだか1万字とか2万字とかで長すぎるとか笑わせんなよとか思わないでもなかったし(これはそう思う私が悪い)、明らかな誤読による批判とかもあってやるせなかったりもした(とはいえ誤読は「誤配」につきものなのでしょうがないか)。しかしそれ以上に今改めて振り返ってみて気になるのは、そうした一部の人を、私から見れば行き過ぎに見えてしまう批判へと駆り立てていたものは何なのか、ということだった。そしてこうした批判の根本的な原因こそ、メンバーである・ちゃんたちがないがしろにされているのではないかという不安であり、つまりそこでは、従(身体)であるアイドルに対する主(精神)としての運営が、自らの精神=コンセプトを語ることそのものが忌避されていたのではないか。

 もちろんこうしたコンセプト語りが忌避されるのは、運営あるいはコンセプトがますます主としての立場を強めることで、ますますアイドルは従の立場に陥ると考えられているからだろう。しかしなんでコンセプトを強調することが、・ちゃんたちをないがしろにすることをすぐさま意味するんだ。要するここでは、先ほどから述べているようなデカルト心身二元論が前提されている、つまりアイドルは、運営に従属するだけの存在とあらかじめ見なされている。何と失礼な前提であることか。しかもこうした批判は、自分の推しのことを第一に考えた結果なされるのである。もちろんこうした推しに対する思いに偽りはないだろう。にもかかわらず結果としては、「アイドルは大人たちの操り人形に過ぎない」という命題を、(たぶん知らないうちに)受け入れてしまっている。こんなに悲しいことはないはずだし、だからこそ今やもう一つの「機械カニバリズム」、すなわち「生きている機械のイマージュ」のほうへと考え方を転換させる必要がある。

 「生きている機械のイマージュ」とは何か。それは、「内在的な比較を通じて、機械の視点から自らを捉える機械のカニバリズム」だと久保は述べる。こうした内在的な比較においては、「人間は比較の主体でありながら比較の対象でもある」。比較対象である機械を、その高みから外在的に比較する主体としての人間はもはやここでは成り立たない。そうではなく、こうした比較においては、比較によって比較の対象と比較を行う主体とが同時に構成されていく。だから今や、人間と機械とを類比的に捉えようとする見方を徹底させるべきなのだ。つまり、規則に則り整然と動く機械とそうした機械ではないものとしての人間、という捉え方ではなくて、人間と機械は共にバグや機能不全を含んでいるがゆえにそれらを区別することはできない、というように捉えること*1。こうすることで、ある現象を人間と機械(非人間)のどちらかに還元して説明するのではなく、むしろそれらが結びついて互いに変化していくという相互作用によって規定されたものとみなすことが可能になる*2

 さてすでに述べたように、「アイドルは大人たちの操り人形(すなわち機械)に過ぎない」という話法が存在している。これはふつう否定的な意味で言われるが、「生きている機械のイマージュ」の議論に触れた今では、これを「アイドルとは生まれながらの機械(natural machine)である」という形で引き受けなおすことができる。なぜならもはや人間も機械=アイドルも、自らのうちにバグや機能不全を含むがゆえに、区別されえないのだから。そしてこうしたバグや機能不全をきっかけに、人間と機械との間で新たな実践の構造が生まれ、両者は変化を遂げていく。久保はこのことの例として、人間と「アイボ」というロボットとのやり取りを挙げていた。しかしここでは、多少乱暴ではあるがやはりアイドル運営やオタクといった人間とアイドルという機械とのあいだの相互作用を考えておきたい。

 運営とアイドル、あるいはオタクとアイドル、これらのあいだでなされる実践のなかで、バグや機能不全が生じることは不可避だし、日常茶飯事だろう。運営の目論見はいつも成功するわけではない。アイドルは時としてステージ上で歌詞や振り付けを間違える。オタクが推しの目を引くためにとった行動が、ただただスベるときもある。でもそうしたなかから広い意味での「アイドル現場」というものは立ち上がってくるはずだし、その楽しさやおもしろさの原因を、アイドル、運営、オタクのどれか一つだけに還元することはできない。できるはずがない。むしろその魅力は、これら三者が互いに互いを変化させていく中で生じていっている。このことは、言葉にせずともアイドルオタクたちが日頃体感していることなのではないだろうか。

 というわけで、結論。「アイドルとは生まれながらの機械である」。3月24日、ドッツ9thワンマン「Tokyo in Natural Machine」。この日、アイドルはもともと、生まれながらに機械であったこと、翻って、その機械に相対する人間もまた、機械と区別されえないということ、こうしたことが堂々と肯定されるだろう。こうした肯定がなされた後でこそ、新たなゆめははじまる。

 

*1:なお、なぜ人間のみならず機械も必ずバグや機能不全を含んでいるのか、ということについての詳細は、『機械カニバリズム』の191-199頁を参照。

*2:ちなみに久保が述べているように、現象を人間のみに還元して説明するのがいわゆる「文系」の学問であり、逆に非人間のみに還元して説明するのが、「理系」の学問である。

ドッチャー・コンセプト派宣言

 ドッチャー*1たるものコンセプト派でなければならぬ、などと言うつもりは毛頭ないしそんな資格もない。だいたい自分自身を省みてみれば、一か月に一回の更新を目標にしていたこのブログも、この半年ほどのあいだは更新が止まっている。とはいえ…。ここのところ「・・・・・・・・・」(以下、「ドッツ」と表記)のコンセプトが(いい意味で)話題になることはあまりなかった、あるいは以前よりも少なくなった、このことは否定できない事実であるようにおもえる。このままではドッツ運営のコンセプト担当である古村さんは、独特の抑揚で、しかも無駄にいい声で、物販のときに・ちゃんのニックネームを元気よく呼んでいる、ただの眼鏡の兄ちゃんだとおもわれてしまうかもしれない…*2

 そんなわけで(?)いまこの文章を書いている。大きく分けてふたつのことを書いていくが、以下ではまず、ドッツにとってコンセプトはどういうものなのか、このことを私なりに整理することから始めてみたい。コンセプトの中身の話ではない。自分としては、ドッツのコンセプトをこんな風に位置付けた上で楽しんでるよ、という話をしてみたい。もちろんこれが正解とかいう話でないことは言うまでもないが、同じような仲間が増えるといいなぁとはおもっているので、誰かの参考になることがあればとてもうれしくなる。

 そもそもの話になるが、こんなふうにしてアイドルのコンセプトについて長々と文章を書く、ということ自体まあまあ珍しい気がする。もちろんアイドル運営が全く意図しないようなかたちで、批評的な文章が書かれる、あるいは学術研究の対象となるということは、とても多いとは言えないにせよ、これまでにもあった。しかしドッツの場合は、日本の批評の文脈を十分に踏まえているとしかおもえないコンセプトが存在している。通常アイドルのコンセプトといえば、それはキャッチコピーに等しいもので、それ以上の含みがあるようなものではない。他方でドッツにおいては、メンバーたちの一見すると奇妙な姿や名前、あるいはただ奇をてらっているだけとしか思えないような演出の背後に、必ずコンセプトが控えている。

 ただし注意しなければならない。以上のような話を聞かされると、まず初めに堅固なコンセプトの体系があって、そこからドッツにまつわるすべてのことが自動的に演繹されてくるといった、硬直的なイメージを抱かれるかもしれないが、それは完全に間違いではないにせよ、ドッツのコンセプトのある重要な側面を取り逃がしている可能性が高い。むしろこう考えるべきだ。まずかなりの程度偶然に左右された様々な出来事が起きる。その後でコンセプトを参照することで遡及的に、事後的に、その偶然は必然であり運命であったことになる。そのように解釈される。もちろんこの過程でコンセプトが改変されたり、新たな内容が付加されたりといったことも生じうるだろう。

 以上のことを踏まえたとき、ドッチャーはコンセプトとどのように付き合うことができるだろうか。まず何よりも強調しておきたいのは、コンセプトにかんして正解などない、ということだ*3。例えばコンセプト担当が考えもしなかった文脈との接続を、ドッチャーたちは勝手にやればいいし、またあるいは、コンセプト担当以上にコンセプト担当らしく考える、などということも可能だろう。そしてそのための場も、材料も、ここでは用意されている。ここでは誰もがコンセプト派にもなりうる。古村さんもすでにこんなふうに書いていた。

 

僕たち(この「たち」にはもちろん、運営だけではなくアイドル自身やファン、外部の人間も含まれます)はもっと話法を自由にしていいんだと思います。「界隈の良さを広げるためには分かりやすい解説が必要」という常識的な思考は一旦措いておきましょう。分かりにくかろうが断片的だろうが、感覚的だろうが理屈っぽくあろうが、「つまりはこういうことじゃない?」とか、「◯◯はこの文脈でここに位置付けられるので、△△が欠けてはいるものの□□を一歩前に進めたと言える」とか、「かわいい」と同じくらい発していい言葉なんです。何のエクスキューズもなく。適当に。自由に。的外れに。荒唐無稽な発想を。あり得ない文脈の接続を。偽史を。断片を。分かりにくい長文を。僕もそう文章を書いていきたい。好きな話法と文体で、構造化されないやり方で、記事間の関係を追えないようなやり方で文章を書いていきたいと思っています。そういうやり方で仮構される像で十分では?と思えてきました。(「・・・・・・・・・はアイドルの枠をいかにして「超えない」のか」) 

 

以上の引用箇所には、私自身たびたび励まされてきた。もっと好き放題やっていい。目の前にはそのための場所も材料も、十分に用意されている。Twitterでも、ブログでも、短くても、長くても、とにかく何か書いてみる。するとそれはほかの人の新たな思考を促し、思考の連鎖を生み出すだろう。「意志は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」。都市はだれのものでもない。みんなのものだ。だからそのコンセプトだってみんなのものだ。コンセプト担当だけのものではない。彼が何も書かなくても、他の誰かが書けばいい。コンセプトをもっともっと自分たちのものにしていこう。

 以上で書きたかったことの一つ目は大体書き切った。正直一番伝えたかったことは書けたのでまあまあ満足なのだが、これだけ他人を扇動しておいて自分は結局何も書かないというのもちょっとどうかとおもう。というわけで二つ目として、本当に久しぶりにコンセプトの内容にかんして、少し書いていきたい。MIXを打つかのようにコンセプトで遊ぶという「オタ芸」としてのブログ芸。その一つの実例として読んでいただけるとありがたい。内容としては、科学人類学の議論とドッツのコンセプトとを重ね合わせてみる、というものになるはずだ。科学人類学とアイドルのコンセプトをつなげてしまうのはあまりにも強引だととおもわれるかもしれないが、意外にもアイドルとの関連がいくつかの点で浮かび上がってくる。このことを示すには意外と手間がかかる。以下で順を追って説明していきたい。

 以前からドッツのコンセプトは、フランスの人類学者ブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論と親和性が高い、と漠然と考えていた。このアクターネットワーク理論というのは、ざっくりいうと人間と非人間(モノ)とを同等のアクターと考え、それらの相互作用から事象を説明する、というものだ。これを踏まえて次の図を見てもらいたい。

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この図は、ドッツのコンセプトを説明する際にしばしば用いられてきた。そしてこの図の中には、人間と非人間のアクターが書き込まれており、これらの相互作用によってドッツという都市で観測される事象を説明することができるだろう。

 ただし以上のように述べただけでは、ドッツのコンセプトにアクターネットワーク理論を当てはめてみたということに過ぎない。それはそれで面白いかもしれないが、先ほど述べておいたアイドルとのつながりはどうなったのか。実は思いがけず、ラトゥールの議論とアイドルとはこれから述べていく二つの仕方で関わってくる。順に確認していきたい。

 まず一つ目の関わりであるが、これを見てとるにはアクターネットワーク理論についてもう少し詳しく言及しておく必要があるだろう。まずラトゥールによれば、近代を特徴づけるのは客観的世界としての自然と人間理性が作り上げる社会との区別・分離である。これはデカルト的な身体と精神の二元論に対応している。そしてこうした二元論は実験法の登場と普及によって確立されたのだという。どういうことだろうか。

 ラトゥールは、実験によってモノに語らせるというあり方を、「政治的代理制」に対して「モノの代理性」と呼ぶ。つまり、外界から隔絶された実験場という理想的な環境を作って人間の主観を最大限排除することで、そこから得られる知識は、いわば事物の方からやってくることになる、というわけだ。以上のようにして、実験法の登場と普及によって二元論が形成されていく様を、ラトゥールは描き出している。

 しかしながらこうした二元論は実際の科学実践に即したものであるのか。もちろんそうではない、とラトゥールは言っている。少し考えてみればわかるが、科学は当然社会との関わり抜きにはありえない。科学者が純粋に客観的な自然に向き合う、などということはありえないのだ。社会と自然は分離されるどころか、絶えず繋がりあっているのであり、ラトゥールが「ハイブリッド(混合物)」と呼ぶものが生み出され続けている。にもかかわらずそれらハイブリッドは無視され、あくまで自然と社会は分離されているという建前が維持されてきた。以上のようなごまかしが近代の図式の裏には潜んでいるのであり、私たちは近代人だとか近代は終わっただとかいろいろなことを言っているが、ラトゥールに言わせればそもそも「私たちが近代人であったことは一度もない(Nous n'avais jamais été modernes)」*4のだ。

 さて、以上のような議論において、アイドルとの関連を指摘できるのは、実験法にかんしてだろう。実験においては、そこで得られた観察結果(経験)から出発し、それらのうちに法則性を見出すという帰納法が用いられる。こうした考え方を提唱した人物として、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの名前がよく挙げられる。そして彼は、実験や観察においてつきまとう人間の主観的な偏見・誤解を、四つのイドラとして定式化した。すなわち、種族のイドラ洞窟のイドラ劇場のイドラ市場のイドラの四つである。これらそれぞれがどのようなものなのかといったことに、ここでは立ち入らない。むしろ注目するべきであるのは、こうしたイドラが、自然と社会の分離という近代的な枠組みが登場してくる過程で、真理に到達するために排除されるべきものであるとされたこと、そしてこのイドラ(idola)という言葉は、アイドル(idol)という言葉の語源であること、以上二点である。

 あまり精密な物言いができる段階に達していないのだが、以上のことからさしあたりの帰結を引き出しておく。現代において、男女を問わずアイドルというジャンル・文化への偏見や拒否感はなお根強い。今現在アイドルに親しんでいる人であっても、最初アイドルになじみ始めたころに、自分の中で様々な葛藤を抱いたという人も少なくないだろう(私もかつてはそうだった)。またアイドルになじみ切ってからは、アイドルに対して投げかけられるあまりにもその内実を無視した心無い言葉や偏見に、怒りや諦めを覚えたことがある人もまた、少なくないとおもう。こうした無理解・拒否感・偏見を、そうした言葉を吐く個々人の見識の無さや不寛容さに帰すことも可能だろうが、それ以上に近代的な枠組みに由来するもっと根深い問題であるのではないか。アイドルとはまさに、近代から排除されながら絶えず回帰する幽霊であり、それゆえにアイドルやアイドルを愛好している者たちは、自分が近代的で自立した主体であると思い込んでいたい者たちに対して、「不気味なもの」として立ち現れてくるのではないだろうか*5

 以上のことは、アイドルと対比される(だけでなくその上位に置かれる)ことの多いアーティストという言葉のことを考えてみれば、より理解しやすいのではないだろうか。そもそも歌手をアーティストと呼ぶことは90年代に端を発するとされているが、この言葉はただ単に歌手すべてを指しているわけでなく(そうであればアイドルとアーティストを対比させる必要もない)、①作詞や作曲にすべてではなくとも参加しており、②そうしてできた楽曲を通じて何らかのメッセージを伝える、といった歌手を特に指しているようにおもわれる。これはまさに自立しており(①)、内なる情念を活動を通じて表現する(②)といったいかにも近代的な発想の下にある主体像だろう。それゆえ、アイドル/アーティストというおなじみの問題を、ベーコンのイドラにまでさかのぼることで得られた大きな視点から考えることも、あながち突飛なことではないのかもしれない。

 ラトゥールとアイドルの関わりの二点目のほうに移る。一つ目は言ってみれば間接的な関わりであったが、こちらはもうすこしわかりやすい関連がある。ラトゥールは、「近代の〈物神事実〉崇拝について」という文章を書いている。「物神事実(faitiche)」というのは、「事実(fait)」と「物神(fétiche)」をくっつけてできたラトゥールによる造語であり、この論文で彼は、物神について論じている。で、この物神とはつまるところ偶像(idol)のことであり、この文章はラトゥールによるアイドル論であると言える。ではそこでラトゥールはどのようなことを主張しているのか。以下でごく簡単に確認しておきたい。

 近代人は、物神(=偶像)崇拝者たちが「魔力を持つ対象」を信仰しているとして批判し、それに対して自分たちは「事実としての対象」を持っていると主張する(反物神崇拝)。しかし議論の詳細は省くがラトゥールは、事実としての対象も結局は物神という魔力を持つ対象と同じように機能していると主張する。どちらも、様々なアクターの相互関係によってその存在が可能になっているのだ。少し引用しておく。

 

なぜ物神崇拝も反物神崇拝も存在しないと全く率直に認め、我々の生活に密接に係わっているあの奇妙な効力、あの「行為の移動者」〔=アクター〕の効力を認めようとしないのか。(ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について――ならびに「聖像衝突」』、38頁。〔 〕内筆者。)  

 

 以上のようなラトゥールの議論を、もっと正確に説明しようとするとどんどん長くなりそうなので、一旦これでよいということにしておく。アイドルとの関連で興味深いのは、やはり何といっても反物神崇拝を主張する近代人の態度だろう。これは現代のアイドルに拒否感を示す人々の態度、つまりアイドルを応援する人々は、まさに魔力を持った実体のない対象を信仰しているのであり、それに対して自分たちは実力(歌唱力や曲を作る能力など)という事実に裏付けられたアーティストならば応援できる、という態度そのものにおもえてしまう。しかしラトゥールが主張していたように、自立した個人などというものは実態に即しておらず、むしろ人やモノという様々なアクター同士の相互作用こそが、個々の存在を可能にしている。

 以上のような回り道を経て、ドッツのコンセプトという当初の話題に戻ってきたとき、それについて何か付け加えて言えることは何だろうか。従来アイドルに対しては、アーティストに典型的な近代的な主体を想定した存在論が当てはめられることが多かった。それに対しては、少なからぬ人が何らかの違和感を抱いてきてはいたものの、それに代わる存在論が提示されたことはなかったように私にはおもえる。ところで、初めの方で確認しておいたように、ドッツのコンセプトはアクターネットワーク理論と似ている。そしてラトゥールはアクターネットワーク理論によって、近代的な存在論(自然と社会の分離、主体と客観の二元論)とは別のより動的で柔軟な存在論を描き出そうとしているように見受けられる。とすれば、次のように言ってみたくなる。すなわち、ドッツのコンセプトは、ラトゥールの試みと並行して、近代的発想では捉えることのできないアイドル独自の存在論を描き出しているのではないか。そしてそのようにして現代のアイドルがどのような仕方で存在しているのかという実態を初めて言語化したという意味において、ドッツのコンセプトそのものがすでにしてアイドル批評と言えるのではないか。だからドッツのコンセプトは、ある意味では(その一見すると突拍子もないことを言っているという印象に反して)実にアイドル的なのであるとここでは主張しておきい。

 

 

*1:ドッツのファンの総称。以前は観測員という呼称が使われることが多かったが、最近はこの言葉が持つ何とも言えないユルさやダサさのおかげか、これが用いられることが多くなっている。この記事も流行りに乗っかって、この呼称を採用してみた。

*2:聞いた話によれば最近は現場に姿を現すことも少ないらしい。古村さん、元気にしてますか。

*3:ただし強度の違いとでも言えるものはあるだろう。どれもが間違いとは言えないからこそ、むしろ各々の解釈の面白さや説得力こそが重要になってくる。

*4:この「私たちが近代人であったことは一度もない(Nous n'avais jamais été modernes)」というのは、邦題が『虚構の「近代」 科学人類学は警告する』となっているラトゥールの著作の原題である。

*5:ベーコンが論じたイドラがアイドルの語源であるからといって、現在私たちが用いている意味でのアイドルという言葉とは意味が違うのだし、それをつなげることには無理があるのではないかとおもわれる方もおられよう。もちろんその通りである。そもそも現代においてもアイドルという言葉の使われ方は多様で混乱している。このことは、香月孝史『「アイドル」の読み方――混乱する「語り」を問う』(青弓社、2014年)においてすでに指摘されている。こうしたことを踏まえた上でなお、少なくとも私自身としてはある程度おもしろい帰結を引き出すことができると考えているがゆえに、多少強引な接続を試みてみた。

Tokyo in Picture、時代に逆行するアートとしての

絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ。

(「Tokyo in Picture」フライヤー)

 

君に出会ったーー取り返しようのないくらい。

幻でもなく、間違いでもなく、たしかに。

………

求めてるのはハートだけ。

差し出せるのはアートだけーーそうでしょう?

(For Tracy Hyde「Theme for "he(r)art"」)

 

 緊張と興奮が入り混じるなかほとんどうわの空で入口での説明を聞き流しつつリーフレットを受け取って右側に向きを変えて数歩進んだそのとき。「あれ」はたしかにそこにあった。「fixed variables」と名付けられたその絵画の中には5人の女の子がいて、入場してきたひとたちの視線をことごとく釘づけにしていた(終演後には6人に増えていた)。

 誰もが、その女の子たちを見るのは(基本的に)初めてだった。にもかかわらずその女の子たちは、もっと前から知っていて、なおかつ特別な思いを寄せている「彼女」たちのことをおのずと想起させた。というのも、そこにいた女の子はそれぞれ、目元以外の部分を除けば「彼女」たち、つまり私たちがいつも「・ちゃん」と呼んでいる女の子たちに、そっくりであるようにおもわれたからだ。そのとき私たちは、「君に出会った」。それは初めてのような、何十回、何百回目のような、そのどちらでもあるようなないような、そんなよくわからない出会いだったが、それでもやっぱり「たしか」でなおかつ圧倒的なものだった。

 こうして入場後早々に強い印象を植え付けられながらもとりあえずメインステージのある5階に降りると、ステージ上にはすでに・ちゃんたちがソファーに座っていた。時折移動するものの、基本的には作品としてじっとそこにたたずんでいる。このワンマンの日についてだけいえば、「彼女」たちはまさに「絵画のように生まれ」たのだ。当然ライブパフォーマンスが始まれば、動き出し、「映画みたいに生き」るだろう。そして入口で「彼女」(=目元以外は・ちゃんによく似た女の子)たちの絵画を見た以上、「彼女」(=・ちゃん)たちが映画のように動き出して生きている姿は、「彼女」(=目元以外は・ちゃんによく似た女の子)たちの「生き写し」と感じられるだろう。ここでは絵画がオリジナルのコピーであるという通常考えられる関係は逆転し、揺らいでいる。

 話をワンマンの当日に戻そう。一通り・ちゃんたちを眺めた後、少し落ち着くためにアルコールを流し込みながら入口でもらったリーフレットを開いてみると、さっきみた「fixed variables」はじめとする絵画に加え、これまで発売されてきたシングル(CDあるいは虫かご)や・ちゃんたちの作品、あるいは衣装などに番号が付されていることに気が付く。ここまでが作品番号1から24なのだが、25番以降はセットリストになっており、それらのタイトルは普段通りの曲名であったり別のものであったりした。そして最後の45番のタイトルは「cheki」。最後に写真(picture)を撮って、「Tokyo in Pictutre」が締めくくられるというわけだ。しかもこのワンマンは「時代に逆行するライブ」と銘打たれていたが、作品番号25から43にわたるライブパートが進むにつれ、各作品に付された年号が下っていくようになっている(ちなみのこの年号は、普段とは別のタイトルをつける際の元ネタになっている芸術作品がつくられた年号に対応している)。よくできてるな…。

 でもこうしたワンマンの構成が素晴らしいのは何もこれだけではない。「Tokyo in Picture」という展覧会の作品として、絵画やCD、女の子たちパフォーマンス等々を等値することによって、都市のエネルギーが女の子やモノのように様々な仕方で観測される/されうるというドッツのコンセプトが、このワンマンの構成によって体現されているのだ。このようにコンセプトを形あるものとして具現化しているという意味においても、「Tokyo in Picture」はまさに芸術作品であったのだといえる。

 また、「fixed variables」という絵画についても語るべきことが多くある。そこに描きこまれた建物の入り口にある、マンションの名前が書いてあるみたいみたいなプレート。そこには「Et In Tokyo Ego」と記されてあった。直訳すると、「私は東京にもいる」。この言葉は絵画のタイトル「fixed variables」と響きあっている。ドッツ運営は、・ちゃんは一人当たり東京の女の子10万人に相当すると説明している。そうした多くの女の子たちの個性が各・ちゃんに重ね合わされた結果、・ちゃんの目元はなんだか黒っぽくなっているのだ。で、この重ね合わせの状態の時が「変数(variable)」と表現されるとするならば、絵画の中のように特定の一人の女の子に収束している場合は「固定された変数(fixed variable)」となる。こうして観測される女の子が複数描きこまれているので、その絵画はまさに「fixed variables」と呼ばれるにふさわしい。またそれゆえに諸変数は別様に固定=観測されうる。「私は東京にもいる」。

 さらに「Et In Tokyo Ego」という言葉には元ネタがある。それはプッサンという画家の作品、「アルカディアの牧人たち」の中に描きこまれた、「Et In Arcadia Ego」という言葉だ*1。このアルカディアという地名と私(Ego)という言葉が何を意味するのかはウィキペディアに書いてあるので割愛。ここで注目したいのは、「fixed variables」という作品がただこの言葉を参照しているだけでなく、その絵画における構図をも参照しているということだ。女の子たちのポーズやその配置の仕方あるいは周囲に配置された静物や背後の建物とそこに差し込む光と影、こうした様々な要素を駆使して、画布の中に正五角形や三角形といった形を見出すことが可能になっている。こうしたプッサンの絵画にみられるような壮大な画面構成は、油画が日本に受容された後も定着しなかったそうだ。ゆえに「fixed variables」は、こうした西洋の油絵の王道へ立ち返っている、つまり「時代に逆行」しているのだといえる。

 とはいえただ先祖返りしているというのではもちろんない。日本の画家によって、しかもアイドルという非常に日本的な現代の偶像が、こうした西洋の王道的な形式で描かれているがゆえに、この作品は確実に新しい表現たりえている。王道を徹底することによる新しさ。正統派なのにへんてこ。ここにドッツとの相似を見出すことはそう難しくないだろう*2。「fixed variables」という絵画も、ドッツというアイドルグループも、ともに時代に逆行するアートに他ならない。私たちがあのとき差し出されていたのは、こうしたアートだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ワンマン会場にあった作品解説では、参照されるべきもう一つの作品として、ベラスケスの「侍女たち」が挙げられていた。エレベーターの中からこちらをみている女の子が、「侍女たち」における鏡に映る国王夫妻、あるいは階段からこちらを見ている男性に対応するという点で、構図上の類似を見出すことができる。

*2:かつてBiSとデュシャンの「泉」が似ていて、それゆえにBiS以後のアイドルは現代アートに対応しているなどと考えてみたことがあったが、このことと併せて考えてみれば、ここで指摘した相似についてさらに踏みこんだ考察が可能になるかもしれない。

ドッツ5thワンマン「Tokyo in Picture」について

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の5thワンマンが、2月19日に行われます。以下では、「Tokyo in Picture」というタイトルに込められた意味、そしてこのワンマンが「時代に逆行する」ライブであると予告されていることの意味、これらのことを考えてみます。

 ここで手掛かりにしていきたいのは、ワンマンのフライヤーに書かれてある言葉です。そこには次のように書かれてあります。「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」。謎めいた文章です。この文章の自分なりの解釈が出せるというところまで行ってみたいとおもいます。

 まず、ワンマンと関連しているはずのものとして、二つのものを取り上げていきます。一つ目は、2月6日に公開された、「きみにおちるよる」という曲のMVです。

www.youtube.com

このMV、まず目につくのは3:4の画面アスペクト比です。これは当然映画(picture)のアスペクト比を意識したものでしょう。このMVで面白いのは、疾走感のある楽曲であるにもかかわらず、メンバーの・ちゃんたちは基本的に動きがほとんどない、ということです。このことは、普段のライブで疾走感のある振付を見慣れている人には、新鮮な印象を与えたのではないでしょうか。 

 では、このMVにおいて、疾走しているものはなにもないのでしょうか。もちろんそんなことはなく、・ちゃんの周囲では都市の景色が高速で流れています。つまり、このMVでは・ちゃんたちの代わりに、都市が楽曲に合わせて疾走しているのです。それだけではありません。1分40秒以降の10秒くらいを見てもらいたいのですが、ここでは躍動感あふれる・ちゃんの振り付けと疾走する都市とが、重なり合うことなく交互に映し出されています。都市も・ちゃんも共に曲に合わせて動くということを表現しながらも、まだはっきりとこの2つは区別されているわけです。しかし、3分20秒あたりになると、もはや・ちゃんと都市との区別が曖昧になっています。両者が実は表裏一体の関係にあるということが示唆されているわけです。

 以上のようなMVについての短い考察から何が導きだされるでしょうか。①このMVはそもそも「Tokyo in Picture」であるということ(画面アスペクト比からわかる)。②このMVはライブのパフォーマンスと対照的に、・ちゃんたちはほとんど動かず、それゆえに新鮮な印象を与えてくれること。③このMVそのものが都市と・ちゃんとが表裏一体であることを表現しているということ。

 以上3つのうち、③についてはドッツのコンセプトをよく表しているといえます。つまり都市としてのアイドル、ということです。コンセプト担当の説明では、この都市=アイドルは、情報や人やモノを生み出すエネルギー=流れであると規定されています。女の子としての・ちゃんは、こうしたエネルギーが私たちに観測されている一つの形態に他なりません。当然、他の観測のされ方もあります。picture(絵画、写真、映画)、つまりは画像や動画も、こうした都市=アイドルが観測されている一つの形態であり、それゆえに、女の子としての・ちゃんと画像や動画の中の・ちゃん(Tokyo in Picture)は、等価であるといえるのです。

 この女の子と画像・動画の等価性は、②に少し関係しているでしょう。つまり、MVは現場でのパフォーマンスの予習のためのもの、現場でのオリジナルな体験に対するコピーではなく、現場でのパフォーマンスと等価なもの、それとは別の体験をもたらすものとして、捉えられているはずなのです。とはいえ、MVがライブパフォーマンスと違うものであるというのは、別にどのアイドルでも同じことです。同じ動画でもライブ動画にかんしては、現場=オリジナル/画像・動画=コピーという関係は崩せないのではないか、そんな疑問が直ちに思い浮かびます。これに応答するためには、もう一つのドッツのコンテンツについて考える必要がありそうです。

 1月30日に「Haptic Video」というものが公開されました。これは、ライブ動画に、パフォーマンス時の・ちゃんの鼓動が連動してスマートフォンが振動する、というものです。ライブ動画というものは、現場でのオリジナルな体験の代替物=コピーである、という捉え方が一般的だとおもいますが、この「Haptic Video」は、動画に現場では決して体験できない・ちゃんの鼓動という新たな要素を付加することで、前述したオリジナル/コピーの関係を揺るがすことを志向しているように見受けられます。つまり現場の女の子としての・ちゃんと画像・動画の中の・ちゃんは等価である、というわけです。

 さて、以上の検討を経ると、冒頭で挙げたフライヤーの文章が、明確な意味を持つものとして立ち現れてきます。もう一回引用しておきましょう。

絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ。

ここには2回「彼女」という言葉が出てきていますが、これは当然別々の「彼女」を指しているはずです。ここを押さえればこの文章は「Tokyo in Picture」の説明文であることが明らかになります。まず一つ目の彼女、これは女の子としての・ちゃんです。で、二つ目が画像や映像の中の・ちゃん(Tokyo in Picture)です。

 このように考えたとき、この文章は普通の人と画像・映像との関係が逆転していることに気づきます。普通は、人がいて、その人による現場でのパフォーマンスがあって(これがオリジナル)、そうした人やパフォーマンスのコピーとしての、「生き写し」としての画像や映像がある、という関係になっています。しかしここでは反対に、女の子としての・ちゃんのほうこそが、画像や映像の中の・ちゃんの「生き写し」であると書いてある、というように解釈できるのです。

 これはどのような意味で「時代に逆行」しているのでしょうか。現在画像や映像は、アイドルの楽しみ方において、現場での体験を補完するものとして、盛んに活用されています。今後もますます活用され、それらが与える体験はますますリアルなものになっていくでしょう。しかしながら、その根底において、画像や映像が最もリアルな現場での体験のコピーでしかないという価値観は、ほとんどと言っていいほど揺らいでいないように見受けられるのです。ドッツの掛け金はおそらくここにある。つまり、「時代に逆行」しこうした価値観を転倒させるというまさに「反時代的」な試みを目論んでいるはずなのです(この価値観こそが、「現場至上主義」という言葉でマークされているものに他ならないのだと私はおもっています)。

 とはいえこのような言葉を重ねているともはや現場での体験が必要ではない、と言いたいかのようにおもわれてしまうかもしれません。そうではないのです。あくまで現場での体験はその他のものと等価だと言っているまでです。それどころか、女の子としての・ちゃんとそれと等価な画像や映像とを貫くエネルギーこそが都市=アイドルであるなら、それを応援する側もそうした女の子のパフォーマンスとそれを映した画像や映像とを往還することによって、ますますそのアイドルを楽しむことができ、こうした往還運動のなかでますます両者は反射し合うかのようにその魅力を高めていくはずです。

 何だか難しげに言ってしまった気がしますが、要するに女の子としての・ちゃんの個性やパフォーマンスがあってこそ、それを映した画像や映像が活きてくるし、反対に画像や映像を見ることによってまたそれが現場での体験にフィールドバックされるという、女の子=オリジナル/画像・映像=コピーという関係には汲み尽くすことのできない素敵な関係を考えることができるのではないか、ということです。

 とかなんとか言っているうちに文章がすこし長くなってきました。本当はまだまだ長く書きたかったのですが、もうワンマンは明後日なのでやめます。万が一この文章を読んで下さったかたでまだ予約をされていない方はぜひ予約を!これだけ伝われば十分です。というわけで最後に予約ページのリンクを貼ってこの文章はおしまいにします。

tokyo-in-picture.peatix.com

記号と空白――ドッツのふたつの定期公演について

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)は基本的に毎月一回定期公演を開催している。12月は「Tokyo in Words and Letters」が開催された。そして2月には「Tokyo in 『         』」が開催される。言葉と文字あるいは手紙(まとめて以下では記号と呼ぶ)、そして空白。両者は表裏一体であって、そのことはこれら二つの定期公演の間=1月に発売されたドッツのファーストアルバム「         」のジャケットにおいて、視覚的に表現されている。そんなことを以下に書き残しておきたい。

 ひとはアイドルについてやたらと何かを語る。書きたくなる。それは音楽のことかもしれないし、メンバーの容姿や性格のことかもしれないし、グループの物語についてかもしれない。もちろん私たちは東京そのものでもあるドッツについて、やはり何かを書くだろう。書こうとするだろう。記号における東京(Tokyo in Words and Letters)。

 ひとはアイドルにかんするあれこれには、記号による表現を使うだけでは尽くせない何か=空白が、あると考えている。ライブの熱量、あの子の尊さ、ライブ後の語らいの高揚感。このことは、言葉を紡ぐためだけの運営=コンセプト担当がいるドッツであっても、当然当てはまることだ。空白における東京(Tokyo in 「         」)。

 こうした二つの側面は、どうしても相容れないもののようにおもえる。でも本当にそうなのか。

 「         」のジャケットを見て頂きたい(見れないよって人はまず買おう!)。9本の線が、縦に走っているのが見て取れる。なぜ9本か。それはグループ名の・の数に合わせているからだろう。ということは、これらの線は・ちゃんだということになる。しかもこの線はただの線ではなく空白だ。空白のなかに・ちゃんがいる。というかそこでは、・ちゃんは空白として現れている。空白における東京。

 しかし、空白はそれだけでは空白として認識されない。それを空白として浮き立たせる何かが必要だ。アルバムのタイトルにおいて、空白をそれとして浮き立たせているのは「」だ。この括弧は、私たちが・ちゃんを観測するというその作用を表しているのだと考えよう。ここで大事なのは、そもそも観測する気にさせる何かが、空白が、あったからこそ観測は行われたのだということ、しかし他方では、観測によってこそその空白は認識されるに至ったのだということ、これらのことである。空白と観測は不可分のものなのだ。

 再びアルバムのジャケットに戻ろう。そこで空白はたちは、東京についての様々な言葉に囲まれることで浮かび上がってきている。このことは次のように解釈できる。①記号による表現では決して尽くせないアルバムの楽曲たち。でもそれはやはり記号によって浮かび上がる(収録されてる曲が9曲だったなら…)。②東京については実に様々なことが語られるし書かれてきた。でもそこには記号で尽くせないようなノイズもまた存在していて、でもやはりそうしたノイズは記号によってこそ浮かび上がる。等々。

 なんだか空白にいろんな意味が読み込めてしまうが、空白である以上それは当然だろう。少なくともここで確認してみたかったのは、空白と観測、特に記号を介した観測、これらが入り組み合っていて互いを切り離すことができないということだった。だから12月の定期公演は2月の定期公演によってより完成されるし、その逆もまた真なのだ。

 また、以上の短い文章からでもさらにいろんな展開が生まれてきそうだ。例えば、ノイズとしての・ちゃん、もっと言えば都市のノイズに対するノイズとしての・ちゃんというインタビューで語られていたテーマにかんして。あるいは、現場の純粋な体験に記号というまがいものがすでに混ざりこんできているということにかんして。このことは、「現前の形而上学」としての現場(=現前する場所!)中心主義にたいするデリダ的応答の仕方を示唆しているだろう。話が散らかってきた。どうやらこの文章によってもまだ見ぬ広大な空白が浮かび上がってきたらしい。

「この私」に常に取り憑くアイドル――・ちゃん、幽霊、量子力学

 「会いに行けるアイドル」から「常に纏えるアイドル」へ。あるいはさらに、「この私」に常に取り憑くアイドルへ…。・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプトに忠実に、もしかしたらドッツ以上にそのコンセプトに忠実に、その参照点である東浩紀の議論を参照しつつ、「この私」に取り憑いている幽霊としての・ちゃんのありさまを描いてみたい。以下で断片的な形ではあれ試みられるであろうことにかんして、さしあたりこのような表現を与えることができるでしょう。しかしここから一体何が得られるのでしょうか。

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「女の子の東京」をつくろう

世界中の女の子憧れる都市は、決まっている。
パリ、ニューヨーク、ロンドン、東京
私はそれらの都市を、身に纏いたかった。
東京という都市の殻を、自分の身に。
そうするには、自分の身を、削って削って細く、邪魔にならないようにして、そっと都市の殻の中に挿し入れるしかないと思っていた。 その殻を纏えば、自分はこれまでとは違う自分になれる。洗練された人になれると信じていたし、全身で「東京の人」になろうとしていた。
それは、自分のかたちを削っていく作業によく似ていた。
悪目立ちするのは田舎者っぽいから、場に溶け込むように、浮かないように。自分の知らない都会の、見えないルールから外れないように。大声を出さないように、感情をむきだしにしないように。 

こういうのが「東京の女の子」なのだと思うかたちに、自分を近づけていくのは、楽しいとか苦しいとかではなく、そうすべき義務のようだった。「東京の女の子」になるために東京に来たのだから。(『東京を生きる』51-52頁)

 

 憧れの都市、東京。女の子はそこで、東京という都市を、その殻を、身に纏う。そうしてその殻のなかに自分を押し入れ、自分を削り、「東京の女の子」になる。そんなとき、「東京の女の子」たちに誰かが呼びかける。アイドルになろう。「女の子の東京」をつくろう。

 「東京の女の子」たちは、アイドルとして、大声を出し、感情をむきだしにし始める。そして、憧れの女の子=アイドルになっていく。もう女の子は東京に憧れているだけの存在ではない。むしろたくさんの人が女の子に憧れている。

 女の子たちはさらに都市への反撃を開始する。女の子たちはどんどん都市をハックしていく。ひとは、都市のそこらじゅうに女の子の存在感を読み取る。かつては憧れの都市を身に纏っていて自分を押し殺していた女の子たち。彼女たちが、今度は憧れの対象になって、いろんな人たちがその女の子たちを身に纏うことになる。そして憧れの女の子=アイドルは、いつの日か憧れの都市=東京と重なりあう(女の子=東京)。私的な思いやりと公共的な思いやりとが直結するだろう。

 「女の子の東京」をつくろう。誰かがそう言ったとき、「の」の用法は、所有格でも連体修飾格でもなく、主格(=「が」)だった。繰り返す。「女の子の東京=女の子が東京」をつくろう。

 

ドッツのコンセプト解説の解説③

 今回は要約ではなく、ただ感想を書き散らす形でいきたいと思います。今回のコンセプト担当の文章も、例のごとく長かったのですが、その途中でも出てくるように、ひとまず都市というコンセプトを念頭においておけば理解しやすい部分があるのではないかと思います。以下で、少し展開させてみます。

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・ちゃんの課題図書を読む②

『観光客の哲学』の第1部はこちらからどうぞ。

 

第2部 家族の哲学(序論)

第5章 家族

1、なぜ家族について考えるのか

・これまであったアイデンティティ

①個人→資本主義(グローバリズム

②共同体→国家主義ナショナリズム

③階級→共産主義

⇒かつては、共産主義が個人と国家を同時に批判していたが、いまや共産主義は力を失った。だから、新たに個人と国家を同時に批判するための足場(=アイデンティティ)をつくる必要がある。

⇒観光客が拠りどころにすべき、第四のアイデンティティとは、家族である。

・私たちのなかにいまだある「家族的なもの」への執着を利用して、どのようにして新しい連帯をつくれるのかを考えることが、家族の哲学の課題。

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ドッツのコンセプト解説の解説②

 以下で示すのは、ドッツ運営が振付師のかたに送った文章「東京マヌカン 歌詞解釈とカバーコンセプトについて」についてのみの要約になります。今回のコンセプト担当の記事は、おおよそこの文章の内容に尽きます。

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